
名古屋城の城下町を散策
愛知名古屋城の城下町を散策
まいどまいど! 愛知県の名古屋市を代表する観光名所の一つが、名古屋城やおまへんか。 立派な名古屋城は今日も名古屋市内を見下ろしてはりまんな。 近くには愛知県庁舎や名古屋市役所もあり、古くから名古屋市内の中心地として発展してきました。 また、愛知県を代表する繁華街の一つといえば、栄やおまへんか。 ここにはぎょうさんの商業ビルが立ち並び、ファッションにグルメに、ぎょうさんのお店が立ち並んではります。 その他、庶民の台所として古くから親しまれてきた大須商店街もあり、ぎょうさんの観光客が訪れてはりまんな。 大須商店街の奥には大須という地名の由来ともなった大須観音さんがいたはりまして、今でも広く信仰を集めてはります。 そんな大須商店街には今も昔も庶民の味として愛されてきた老舗がおます。 そんな老舗の味を堪能しつつ、次にご紹介するのが、全国的にも珍しい信号機。 え?なんでこんなとこにあるねんやろ? え?これ、どないしてみたらええねんやろ? 初めて目の当たりすると、色んな不思議が思い浮かぶ(笑) さらに、愛知県を代表するシンボルタワーとして親しまれてきた名古屋テレビ塔もあり、観光名所としての一面も。
-
名古屋城は別名、「名城」、「金鯱城」、「金城」、「那古野城」とも呼ばれている。 日本100名城に選定。 国の特別史跡に指定。 織田信長が生まれたとされる今川氏・織田氏の那古野城跡付近に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。 以降、徳川御三家の一つに数えられる尾張徳川家17代の居城であった。 大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられる。 1945年、第二次世界大戦中に起きた名古屋大空襲によって焼失し、戦後に復元されている。 1872年、東京鎮台第三分営が城内に置かれた。 1873年、名古屋鎮台となり、第三師団に改組され、終戦まで続いた。
-
金の鯱
金鯱(きんこ)は、名古屋の街の象徴にもなっている。
-
名古屋城下町の景色
名古屋城下町の景色。
-
名古屋城下町の景色
愛知県庁や名古屋市役所が見える。
-
加藤清正
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、大名。 肥後熊本藩初代藩主。 通称は虎之助。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。 秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。 秀吉没後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。 従三位を追贈されている。
-
本丸御殿復元
名古屋市は本丸御殿復元のための「名古屋城本丸御殿積立基金」の寄附募集を開始し、文化庁より本丸御殿の復元工事が許可され、復元工事が着工し、復元される。
-
-
二之丸御殿の造営に伴い、聖堂(金声玉振閣)を中心として設置された。 現在は、枯山水回遊式庭園となっている。
-
戊辰戦争から第二次世界大戦までの愛知県関係の戦没者を祀る。 1868年、尾張藩主徳川慶勝が、戊辰戦争で戦死した藩士らの霊を、名古屋市昭和区川名山に祀り、「旌忠社」として祠を建てたのに始まる。 特攻勇士の像が建立された。
-
能や狂言などの伝統芸能の振興と文化交流の推進を目的として開館。 総木曾檜造りの能舞台、630席の見所(地方自治体の能楽堂では最大)を持つとか。 第5回愛知まちなみ建築賞を受賞している。
-
加藤清正
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、大名。 肥後熊本藩初代藩主。 通称は虎之助。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。 秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。 秀吉没後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。 従三位を追贈されている。
-
-
愛知県庁と名古屋市役所。 1871年、廃藩置県で名古屋藩(尾張藩の末期の名称)が廃止。 1872年、名古屋県(知藩事は尾張徳川家)が発足したが、愛知県と改称した。 愛知県と額田県が合併し、現在の愛知県ができる。 1938年、現在の県庁本庁舎が完成した。 1933年に竣工。これは政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に歴史の長いものとなっている。 名古屋市役所の本庁舎は昭和天皇即位の記念事業として建設されたもの。 公募によって選定され、平林金吾の設計を基にした。 頂部に城郭風の屋根を乗せた帝冠様式の意匠が特徴。 「名古屋市庁舎1棟」として国の重要文化財に指定。
-
911年、創建。 津島牛頭天王社(現在の津島神社)を総本社とする天王社の一つ。 当初は亀尾天王社と呼ばれた。 1532年、合戦で焼失したが、織田信秀により再建。 創建時より若宮八幡社と隣接していたが、名古屋城築城の際に、当神社のみ三の丸の郭内に取り込まれ、若宮八幡社は城外に遷座した。 名古屋鎮台が城内に置かれたのを機に、東照宮とともに旧藩校明倫堂跡地である現在地に遷座。 能舞台兼用の神楽殿が建てられて月次能が催されるなどしたという。
- アプリで地図を見る
-
徳川家康を祭神とする東照宮。 尾張藩の初代藩主であった徳川義直が、父にあたる徳川家康の三回忌である1618年に大祭を行った。 1619年、東照宮を勧請し、成瀬正成、竹腰正信を奉行にし、南天坊天海を導師とし、家康の神像を祀ったのが創祀。 1875年、名古屋鎮台が城内に置かれたのを機に、天王社とともに旧藩校明倫堂跡地である現在地に仮遷座。 1876年、本遷座。 名古屋市の都市景観重要建築物に指定。
-
1954年、久屋大通公園に立つ日本で最初に完成した集約電波塔。 高さ180m。 設計者は内藤多仲。 通称「名古屋のテレビ塔」「栄のテレビ塔」、「テレビ塔」とも呼ばれている。 地上90mの高さではスカイデッキ、100mの高さでは、スカイバルコニーがあり、どちらからも名古屋市内を中心とした周辺を一望することができる。 3階にはレストラン、娯楽コーナー、お土産を販売するショップもある。
-
名古屋の繁華街、栄地区。 東西方向の広小路通と南北方向の大津通が交わる栄交差点を中心として繁華街を形成し、久屋大通公園やテレビ塔、立体公園オアシス21、愛知県立美術館・愛知県芸術劇場などが入る大型文化施設愛知芸術文化センターがある。 松坂屋、丸栄、三越といった名古屋の3Mとも呼ばれる百貨店(名古屋駅にある名鉄百貨店を加えて4Mともいう)が揃う。 江戸時代、人家もまばらな地区であった。 明治時代、県庁・学校などの官公施設や銀行・料亭などの商業施設が作られるようになり、広小路通沿いに路面電車が開通すると、町として大きく発展。 繁華街を形成するようになった。
-
名古屋を代表する名古屋銘菓の納屋橋饅頭万松庵さん。 1886年、名古屋城築城と同時に開削された運河「堀川」のたもとで、和菓子店「伊勢屋」が創業。 1610年、堀川に架かる納屋橋が架橋されて以後、架け替えられ、その記念として夫婦三代、揃った家伊勢屋が、橋の渡り初めをした。 以来、屋号は納屋橋饅頭となったとか。 万松庵の初代は、当時の納屋橋饅頭に奉公、大正時代に暖簾分けし、納屋橋饅頭万松庵が開店。 ここでは、酒饅頭の納屋橋饅頭をはじめ、あずきパイやどら焼き、アイス最中などが店頭に並ぶ。
-
揚げまん棒
人気の一つが、「揚げまん棒」。 納屋橋饅頭をドーナツ生地に包んで揚げたといい、大須グルメの一つとして注目を集めている。
-
-
後醍醐天皇により北野天満宮が創建され、同社の別当寺として僧能信が創建した真福寺が、大須観音の始まり。 名古屋開府による名古屋城築城及び城下町の整備に伴い、萬松寺(織田信秀が開基)、真福寺寶生院(大須観音)が現在地に移転し、門前町として発展した。 役者芸人の宿が置かれ、後に遊女を置く私娼も現れた。 北野新地が公認の遊廓に指定されたが、西大須に移転した。 萬松寺が寺領の山林を一般の商業用地として開放し、劇場、演芸場、映画館などがの歓楽街として栄えたが、大須大道町人祭を開催した。 後に、秋葉原(東京)、日本橋(大阪)に次ぐ電気街として発展し、日本三大電気街の一つとなった。
- アプリで地図を見る
-
全国的にも珍しい変わった信号機があるという。 場所は、赤門通と裏門前町通が交差する愛知県名古屋市中区大須3丁目付近。 赤門通と裏門前町通とがちょうど交差する場所の上に4方向の車両用と歩行者用の信号機が設置されている。
-
真言宗智山派の別格本山。 正式名称は北野山真福寺宝生院。 本尊は聖観音。 日本三大観音の一つ、観音霊場で、なごや七福神の一つ、布袋像を安置。 1190年代、尾張国中島郡長庄大須に中島観音が創建。 1324年、後醍醐天皇が岐阜県羽島市桑原町大須にある大須郷に北野天満宮を創建。 1333年、同社の別当寺として僧の能信が創建した真福寺が当寺の始まり。 後村上天皇により伽藍が建立、勅願寺となった。 四天王寺(大阪府大阪市天王寺区)の観世音菩薩を移して本尊とした。 三代目住職の任瑜法親王の時、伊勢・美濃・尾張・三河・遠江・信濃六ヶ国の真言宗寺院を末寺とした。
-
大須観音の門前町
1612年、徳川家康の命により、犬山城主の成瀬正茂によって現在地に遷座。 1815年、五重塔が建立、空海が彫った愛染明王像が五重塔内に安置。 1892年、境内の宝生座(芝居小屋)からの出火(大須の大火)により、焼失。 後に、本堂と仁王門は再建されたが、第二次世界大戦による名古屋大空襲で焼失。 1970年、再建。 大須という地名は当地の大須観音の門前町が発祥。
-