まち全体が博物館!平野郷まちぐるみ博物館に出かけよう!
大阪まち全体が博物館!平野郷まちぐるみ博物館に出かけよう!
まいどまいど! 皆さんは平野郷(ひらのごう)っちゅう場所をご存知でっしゃろか。 「え?郷って、何やねん?」。 そんな質問が聞こえてきそうですが、郷という言葉をわかりやすく表現するなら、代表的な例に白川郷がありまんな。 昔ながらの趣ある合掌造りが有名な白川郷は、岐阜県にあり、世界遺産にも登録された場所でんねん。 さて、平野郷とは、現在の大阪市平野区で、平野区の前身にあたります。 せやけど、平野郷は現在の白川郷とは大きく異なりまんねん。 平野郷は平安時代、自衛を目的に、町を堀で囲いました。 江戸時代に勃発した大坂夏の陣の際に荒廃した後、復興して以来の町並みをとどめています。 最近では「まちぐるみ博物館」と題して、老舗の新聞屋さんや駄菓子屋さん、自転車屋さんなどが中心となって、一般開放し、観光客を呼び込んでいます。 特に注目なのが、天国と地獄を身近に体験することのできる全興寺さんでんな。 地獄では閻魔さんの人形が展示され、鬼のような形相で来客を驚かせます。 今と昔が交差する不思議な町でおまっせ!
平野区の花「わた」から生まれた妖精。 大阪・中之島での「中之島まつり」、サッカーチーム「セレッソ大阪」での応援、平野区のイベントに登場!
1889年、創業した。 1928年、建設された。 現在は、大阪市で最も古い新聞販売店の博物館として利用されている。
大阪市にある南海電気鉄道の軌道路線である。 西成区「今池駅」から同市平野区「平野駅」までの5.9kmを結んでいた。 今池駅で南海阪堺線から分岐していた。
1763年、平野郷として栄えた当時の地図が描かれている。 場所は、南海平野線の軌道跡にある。 また、周辺では、今でも古い町屋が多く現存し、新聞屋さん博物館や自転車屋さん博物館など、「平野町ぐるみ博物館」として注目を浴びている。
大念仏寺と表記される場合もある。 融通念仏宗総本山。 1127年、日本初の念仏道場として創建された。 本尊は十一尊天得如来(絵像)。 「十一尊天得如来」とは融通念仏宗特有の呼称で、阿弥陀如来と十菩薩の絵像である。 1127年、比叡山の天台宗の僧の良忍が、鳥羽上皇の勅願により開創。 前身は、平野殿坂上広野の私邸内に建立した融通念仏の道場の菩提所・修楽寺の別院である。 毎年5月1日〜5日に行われる「万部おねり」は大阪市指定無形民俗文化財に指定。
800年、蝦夷との戦いが勃発。 坂上田村麿の子孫である廣野麿が武功をたて、朝廷から杭全庄を賜わった後、この地を領有したと言う。 廣野麿は、嵯峨、淳和の二帝につかえ、右兵衛佐に任じられこの地に永住した。 没後、坂上家では、代々民部を名乗り、この地を領有していた。 当時、地元の人々から平野殿と呼ばれたと言う。 その後、平野の七名家となった。
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大阪市平野区にある商店街である。 商店街には、飲食店や雑貨店などの店が立ち並ぶ。
大阪市平野区にある高野山真言宗の寺院である。 「せんこうじ」と呼ばれ、親しまれている。 500年頃、聖徳太子が、平野の野中の地に小宇を建立して薬師如来の像を安置された。 1661年に再建された。 門の前に置かれている看板には、鬼が描かれ「ウソつくと舌をぬくぞ」と書いてある。 ほとけのくにや仏足石、地獄堂、小さな駄菓子屋さん博物館などがある。 地獄堂には、閻魔(えんま)大王様などの像が並んでいる。 平野の音博物館には、昔の電話機を通じてCDに録音された懐かしい音や平野の年間行事、昔話などを聴くことができる。
地獄の釜の音
地上から丸く突き出している石。 この石の中央部には、大きな穴が空いている。 この穴に、頭を入れると、「地獄の釜の音」が聞こえると言う。
博物館には昭和20年代~30年代に駄菓子屋さんに並んでいたおもちゃが展示されている。 また、電気洗濯機や木製の冷蔵庫、白黒のテレビ、パチンコ台などがある。 博物館の窓にある暖簾には「のぞいてごらん」と書かれている。 実際にのぞいてみると、昭和25年当時のおばあちゃんの部屋が再現されている。 平野の音博物館には、昔の電話機を通じてCDに録音された懐かしい音や平野の年間行事、昔話などを聴くことができる。
大阪市平野区にある碑。 1717年、土橋友直が創設した。 救済活動のほか、経書講読・国学・医学・算学等を教えた。 1872年、学制発布のため閉鎖、155年続いた歴史に幕を閉じた。 はじめ、庭の老松にちなんで老松堂と呼ばれていた。
大阪市平野区にある碑。 古くは、摂津国住吉郡平野庄と呼ばれていた。 その後、大阪市に編入するまでの詳細が刻まれている。
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862年、創建された。 征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫とされる坂上当道が素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建したと言う。 1987年、日本で唯一連歌所が残り、毎月定期的に平野法楽連歌会が催されている。 室町時代、初代の連歌所が建てられたが、大坂冬の陣で焼かれた。 1708年、再建され、大阪市指定文化財に指定されている。 毎年7月11日から14日、夏祭り(平野だんじり祭)が開催される。 また、文化財を多く持つ。
戦国時代、平野は堺と並ぶ自治都市であったいい、「平野郷」とも呼ばれていた。 自衛と灌漑・排水用あるいは洪水の調節池として、集落の周りを囲んでいたという。 完成時期など、詳細は不明である。 南北朝時代から平野郷は、大阪の主要都市を結ぶ中継点に当り、交通の要衝であった。 戦国時代、平野郷に住む住民は、町の安全を守るため、自治都市を創り上げた。
1780年代、平野郷の陣屋は、古河藩時代に置かれた。 明治時代、版籍奉還後に陣屋は廃止された。 平野郷をはじめとする古河藩所領の行政事務を取り扱うという。
通称、「三十歩神社」と呼ばれている。 赤留比売命を祀る。 杭全神社の飛地境内社である。 また、豊臣秀吉の正妻北政所の所領であったときの会所跡でもある。
1565年生まれ。 1615年、大坂夏の陣では、徳川秀忠に属した。 大坂城落城の直前、前田利常や本多康紀両軍に敵陣への攻撃を伝えた。 その後、数人の敵軍と遭遇した際、単身で戦った。 勝利を収め、賞賛されたが、平野郷願正寺にて療養中、自害した。
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戦国時代、自治都市であった平野郷。 その際、郷内の安全のため集落のまわりを濠で囲み(「環濠集落」)、郷への出入りは13ヶ所に設けられた木戸口を使って行われたと言う。 また、それぞれに門や地蔵堂があって平野十三口と呼ばれ、その中の一つに「樋之尻口門」があった。 そのときに架けられていたとされる樋之尻橋の名残がある。
この周辺は、低湿で、飲料に適合しない井戸が多かった。 そんな中、この井戸だけは良質の水が湧出していたと言う。 そのため、上下水道が普及するまで、飲用や酒造用に利用されたと言う。
大坂夏の陣の際、徳川家康がここを通過すると予測した真田幸村は、ここに地雷を仕掛けたのだとか。 案の定、地雷が爆発したが、徳川家康は所用で席をはずしていたので、助かったのだとか。
室町時代後期の武将・守護大名、室町幕府管領。 1442年、畠山持富の次男。 本姓は源氏。 政長の父である畠山持富は、畠山持国の嗣子に予定されていた。 持国は、庶子義就に継がせようとしたため、内紛が生じた。 持富の没後、政長の兄である畠山弥三郎が後継者となる。 弥三郎の没後、政長が後継者となった。 義就が管領に就任すると、山名持豊らが畠山義就を擁立して政長が罷免。 1467年、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの守護大名争いが勃発し、応仁の乱となる。 政長は山城国の守護に任命。 守護領国制の導入を強行し、子孫にあたる細川政元らの反感を買い、山城国一揆へと発展。
畠山政長
1493年、10代将軍である足利義材を頼り、明応の政変を起こした。 政長は、大阪市平野区・河内国正覚寺城を包囲され、自害。
代々、鞍作の庄屋を務めた農家。 江戸時代初期に建てらたとされる屋敷の一部は、国の重要文化財に指定されている。
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平野郷ぐるみ博物館の一つに数えられる「くらしの博物館」。 木造建築の古い町屋の保存を目的に改造して、今では飲食店「がんこ」さんが営業しています。 店内の雰囲気もかつての趣をそのままに、お食事を楽しむことができます。
大阪市平野区の緑地公園である。 また、周辺にある八尾市や東大阪市をまたぐ。 服部緑地(豊中市、吹田市)や鶴見緑地(大阪市鶴見区、守口市)、大泉緑地(堺市)とともに「大阪四大緑地」に数えられる。 ここでは、「北エリア」「中エリア」「東エリア」の3つのエリアに分かれる。 また、それぞれに「ファミリーゾーン」「スポーツゾーン」「プレイゾーン」と呼んでいる。 公園内には、野球場、陸上競技場、テニスコート、プールなどの施設がある。 面積は、38.4ha。 1971年に開園した。