まち全体が博物館!平野郷まちぐるみ博物館に出かけよう!
まいどまいど! 皆さんは平野郷(ひらのごう)っちゅう場所をご存知でっしゃろか。 「え?郷って、何やねん?」。 そんな質問が聞こえてきそうですが、郷という言葉をわかりやすく表現するなら、代表的な例に白川郷がありまんな。 昔ながらの趣ある合掌造りが有名な白川郷は、岐阜県にあり、世界遺産にも登録された場所でんねん。 さて、平野郷とは、現在の大阪市平野区で、平野区の前身にあたります。 せやけど、平野郷は現在の白川郷とは大きく異なりまんねん。 平野郷は平安時代、自衛を目的に、町を堀で囲いました。 江戸時代に勃発した大坂夏の陣の際に荒廃した後、復興して以来の町並みをとどめています。 最近では「まちぐるみ博物館」と題して、老舗の新聞屋さんや駄菓子屋さん、自転車屋さんなどが中心となって、一般開放し、観光客を呼び込んでいます。 特に注目なのが、天国と地獄を身近に体験することのできる全興寺さんでんな。 地獄では閻魔さんの人形が展示され、鬼のような形相で来客を驚かせます。 今と昔が交差する不思議な町でおまっせ!
南海平野線西平野駅跡
大阪市にある南海電気鉄道の軌道路線である。 西成区「今池駅」から同市平野区「平野駅」までの5.9kmを結んでいた。 今池駅で南海阪堺線から分岐していた。
平野中央本通商店街
大阪市平野区にある商店街である。 商店街には、飲食店や雑貨店などの店が立ち並ぶ。
含翠堂跡
大阪市平野区にある碑。 1717年、土橋友直が創設した。 救済活動のほか、経書講読・国学・医学・算学等を教えた。 1872年、学制発布のため閉鎖、155年続いた歴史に幕を閉じた。 はじめ、庭の老松にちなんで老松堂と呼ばれていた。
平野郷町大阪市編入記念碑跡
大阪市平野区にある碑。 古くは、摂津国住吉郡平野庄と呼ばれていた。 その後、大阪市に編入するまでの詳細が刻まれている。
平野環濠跡
戦国時代、平野は堺と並ぶ自治都市であったいい、「平野郷」とも呼ばれていた。 自衛と灌漑・排水用あるいは洪水の調節池として、集落の周りを囲んでいたという。 完成時期など、詳細は不明である。 南北朝時代から平野郷は、大阪の主要都市を結ぶ中継点に当り、交通の要衝であった。 戦国時代、平野郷に住む住民は、町の安全を守るため、自治都市を創り上げた。
安藤正次墓所
1565年生まれ。 1615年、大坂夏の陣では、徳川秀忠に属した。 大坂城落城の直前、前田利常や本多康紀両軍に敵陣への攻撃を伝えた。 その後、数人の敵軍と遭遇した際、単身で戦った。 勝利を収め、賞賛されたが、平野郷願正寺にて療養中、自害した。
平野郷樋尻口門跡
戦国時代、自治都市であった平野郷。 その際、郷内の安全のため集落のまわりを濠で囲み(「環濠集落」)、郷への出入りは13ヶ所に設けられた木戸口を使って行われたと言う。 また、それぞれに門や地蔵堂があって平野十三口と呼ばれ、その中の一つに「樋之尻口門」があった。 そのときに架けられていたとされる樋之尻橋の名残がある。
樋尻口地蔵
大坂夏の陣の際、徳川家康がここを通過すると予測した真田幸村は、ここに地雷を仕掛けたのだとか。 案の定、地雷が爆発したが、徳川家康は所用で席をはずしていたので、助かったのだとか。
畠山政長墓所
室町時代後期の武将・守護大名、室町幕府管領。 1442年、畠山持富の次男。 本姓は源氏。 政長の父である畠山持富は、畠山持国の嗣子に予定されていた。 持国は、庶子義就に継がせようとしたため、内紛が生じた。 持富の没後、政長の兄である畠山弥三郎が後継者となる。 弥三郎の没後、政長が後継者となった。 義就が管領に就任すると、山名持豊らが畠山義就を擁立して政長が罷免。 1467年、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの守護大名争いが勃発し、応仁の乱となる。 政長は山城国の守護に任命。 守護領国制の導入を強行し、子孫にあたる細川政元らの反感を買い、山城国一揆へと発展。
久宝寺緑地 子ども広場
大阪市平野区の緑地公園である。 また、周辺にある八尾市や東大阪市をまたぐ。 服部緑地(豊中市、吹田市)や鶴見緑地(大阪市鶴見区、守口市)、大泉緑地(堺市)とともに「大阪四大緑地」に数えられる。 ここでは、「北エリア」「中エリア」「東エリア」の3つのエリアに分かれる。 また、それぞれに「ファミリーゾーン」「スポーツゾーン」「プレイゾーン」と呼んでいる。 公園内には、野球場、陸上競技場、テニスコート、プールなどの施設がある。 面積は、38.4ha。 1971年に開園した。
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