司馬遼太郎記念館はどうしても行きたい場所!大阪城、真田丸、適塾とともに。
大阪司馬遼太郎記念館はどうしても行きたい場所!大阪城、真田丸、適塾とともに。
歴史好きにとって司馬遼太郎記念館はどうしても行きたい場所です。その数々の作品を書くためにどれだけの資料にあたっていたかを体感できます。今回は、同時に司馬遼太郎作品に登場する大坂の中心的舞台「大坂城」「真田丸」「適塾」を組み合わせてプランにしてみました。
歴史文学の巨匠司馬遼太郎さんの記念館です。1996年に亡くなられた後の2001年、司馬さんの自宅に隣接して安藤忠雄さんの設計で建てられました。 2014年12月10日から2015年1月5日までの約1ヶ月間休館なのでご注意を。
河内小坂
河内小阪の駅を下りるとアーケードにあと600mと出ます。
道中案内表示
結構小さな道を600mくねりながら進んで行くのですが、足下のこんな表示(足下だけではないですが)で迷わないようになっています。
途中の中小阪公園
途中の中小阪公園には、「21世紀を生きる君たちへ」の石碑がありますのでお見逃しなく。ちなみに、記念館の展示には「21世紀を生きる君たちへ」全文のパネルがあります。こちらは是非全文読んでください。すべての若者に読んでほしいです。
記念館入り口
普通のご自宅だったところなのでまさに門です。
「司馬遼太郎」表札
記念館の入り口には司馬遼太郎の表札がありますのでこちらもお見逃しなく。
隣接するご自宅
記念館は司馬さんのご自宅に隣接して建てられています。緑に囲まれた非常に大きな立派な自宅も外から拝見することが出来ます。
新庭
安藤忠雄さん設計で開館時にはなかった庭ができました。
書斎
庭から、司馬遼太郎さんの書斎を見ることができます。万年筆や色鉛筆がそのまま。
花供養碑
「振り向けば又咲いている花三千仏三千」と自書された花供養碑もお庭にあります。
安藤忠雄設計
記念館自体は安藤忠雄さんらしいコンクリート打ちっぱなし+ガラスの建物です。
大書架
ここが一番の見所の大書架。2万冊を超える蔵書が司馬遼太郎さんの作品を支えたことを感じましょう。ちなみに隣の自宅にももう2万冊あるそうですので4万冊が支えてます。
ステンドグラス
透明の美しいステンドグラスも1つの目玉です。これ本当に素敵でした。こういう自宅だったらなぁって。
天井に龍馬の染み?
天井に龍馬の肖像の染みが降臨したなんて話題になってますね。
企画展
地下のフロアでは司馬作品に関する企画展が行われています。
映像ホール
30分に一回、10分程度の司馬さんにまつわる映像を見ることが出来ます。2パターンあります。
カフェ
このテーブルだけですが小さなカフェで休憩できます。ホットの飲み物は司馬さんの色紙デザインのマグです。
書籍・グッズ販売
司馬さんの作品書籍や、結構色々な記念館グッズが売っています。そんななかで「21世紀を生きる君たちへ」の書籍(1080円)は是非買って帰り聖書のように飾りましょう。笑
司馬作品でも、秀吉や豊臣家に焦点を当てた「豊臣家のひとびと」はもちろん、戦国三部作の2つ「関ヶ原」や大坂冬の陣、夏の陣を描いた「城塞」にも数多く登場する大阪城です。 しかし、実は今のみなさんが観ている大阪城は石垣すら徳川時代に秀吉時代の大阪城を全部埋めて作った徳川のものです。破却、盛り土をして全部埋めちゃうなんて徳川恐るべし。 復元天守は徳川と豊臣をまぜたものでなんだかんだ中途半端。大坂夏の陣400年の2015年をきっかけに是非とも正しい認識をしましょう。
豊臣天守閣
こういう黒色の姿だったそうです。イメージ大分違いますのでイメージを書き換えておきましょう。 しかも建っている場所も今の場所ではなく、天守閣の隣の場所にあったようです。三国無双の巨城といわれましたが大阪夏の陣で消失してしまいました。 現在、豊臣時代の天守閣の石垣を発掘して公開するプロジェクトが進行中です。
徳川天守閣
黒い豊臣天守閣に対して、徳川天守閣はこんな風に白を基調にしたものだったそうです。こちらも落雷で30年で消失。なんか因果を感じますね。
復元天守閣
この今の3代目の天守閣は、徳川時代の石垣の上に大阪市長の働きかけで1931年に作られたものです。4階までは徳川天守、5階を豊臣天守をイメージして作られており、中途半端との批判もあります。 実は豊臣天守も徳川天守も30年くらいしかもたなかったので、既に一番長く存在している天守閣ってことになります。
大手門
徳川時代に出来たものなので瓦にも葵の御紋があります。
石垣
巨大な要塞である大阪城の石垣はなんと豊臣時代の石垣を全部埋めて作られた徳川時代の石垣だそうです。秀吉すげーな!って思ったら間違いってことですね。
豊臣石垣公開
現在豊臣時代の天守の石垣が発見され状態もよいようなので、公開にむけたプロジェクトが進行中です。
豊国神社
豊臣秀吉を祀る神社。京都が本社で大阪のは分社です。
豊臣秀吉像
実はこの秀吉像は2007年のものだそうで新しい!だからこんなキリっとしているのか!
司馬遼太郎「豊臣家の人々」
豊臣という非常に珍しい運命を辿る一族を描いています。大阪城はその象徴。
司馬遼太郎「関ヶ原」
もちろん大阪城が沢山描かれています。
司馬遼太郎「城塞」
徳川家康が、当時西欧をみても類を見ない巨城だった大阪城を謀略を尽くして落として行く、大坂冬の陣、夏の陣の様子を、家康の間者である小幡勘兵衛を通じて描かれています。
大坂冬の陣、夏の陣を描いた司馬遼太郎作品「城塞」で、大坂冬の陣の際、真田幸村が陣取る真田丸があったのでは?と言われてきた場所です。真田山って名前が地名になってますからね。でも最近の調査ではここではなかったようで明星学園のあたりだそうです。
真田幸村
信州上田の戦国武将真田昌幸の次男信繁のことで、関ヶ原の戦いで家康の子秀忠を上田に足止めした戦いに貢献したことから高野山に幽閉。その後大坂冬の陣、夏の陣で活躍し、夏の陣では最後は家康に後一歩というところまで行ったと伝わる猛将。
真田丸
大坂の冬の陣において、真田幸村が大坂城の平野口に構築した曲輪(東西180メートルほど、半円形の曲輪だったと言われてきました)。西は海、北は川、東は掘に守られた大坂城の弱点の南側の防御を完璧なものとしたと言われています。
司馬遼太郎「軍師二人」
大坂の陣で活躍する大坂方の二人の武将、真田幸村と後藤又兵衛を描いています。真田幸村は2016年大河ドラマ「真田丸」のメインキャスト、後藤又兵衛は2014年大河ドラマ「軍師勘兵衛」にも出てきますね。
真田丸のあった範囲にあったと言われる三光神社。真田丸以前からあったようですが、大坂の戦後再び建立されたようです。真田丸があった場所とも言われてますが、最近の調査ではそうではなく、実は隣の地域のようです。
真田幸村像
境内には真田幸村公の像が建っています。
真田抜け穴
同様に境内に真田が掘った大阪城への抜け穴跡というのがあるのですが、この穴は後から掘ったもののようです(実際には掘られたものがあったようですが)。
門前に真田丸跡の碑が建っています。実は最近の調査では、ここが実際の真田丸の場所だということがわかっています。ここが真田丸の北東の角で周辺の道は崖で堀のように利用されていたようです。この寺の並びと大阪明星学園の辺りが真田丸の全体像です。ここで徳川軍を1日で15000人も倒したわけですね。
真田丸跡の碑
「真田幸村出城跡」の石碑です。
真田丸絵図
江戸初期に作られた広島浅野家に伝わる真田丸の絵図です。真田丸内の6つの寺(赤)の一番右上が心眼寺と考えられてます。
真田丸があったとされる場所に建つ学園です。最近の調査では、心眼寺の辺りと共にこの高台が出城として利用されたと言われています。
真田丸顕彰碑
真田丸の顕彰碑が建てられています。
四角
真田「丸」と言われていますが、実際には四角の形状だったようです。江戸時代の絵図だと半円で大阪城にひっついていますが、実際は違うようです。
浅野家に伝わる真田丸絵図
あまり注目されていなかったようですが、この絵図が一番正確だったことがわかったようです。大阪城からは大分独立した出城だったようです。
江戸時代の真田丸イメージ
このような半円で大阪城に接しているのが江戸時代のイメージだったようで、我々のイメージもこのイメージになってます。
真田丸解明イメージ
NHKのヒストリアで解明されたイメージ図が作られていました。
真田丸南側
激戦の南側は実際なんの痕跡もありません。1日15000人も徳川軍がやられたといわれる真田丸ですが、この南側の空壕がやっかいだったことから冬の陣の後、徳川に徹底的に破壊されたのでは、だからこそ痕跡すらないのでは?とプラタモリの真田丸の回で推察されていました。
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大坂冬の陣で徳川家康が本陣をおいた茶臼山。夏の陣では真田幸村が陣を敷いています。大阪城攻略の要所である天王寺口を見渡すことが出来る小山で、大坂夏の陣で死を覚悟している真田幸村はここから東軍を迎え撃ち、山から駆け下りて50騎を率いて家康の本陣まで攻め入ったと言われています。別名「大塚城」と言われる人工の盛り土の小山です。
石碑
ここには冬の陣は家康、夏の陣は真田の本陣が置かれたことが記されてます。
司馬遼太郎「城塞」
大坂の陣のむなしさ、真田幸村の悲哀が良く描かれています。
大坂夏の陣で徳川家康の本陣を二度にわたって突いた真田幸村が毛利勝永を大阪城に退却させるために殿を務めながら力つきて討たれた場所です。最後は一切の抵抗無く槍で突かれたと伝えられています。
真田幸村最期の場所
碑が建っていますし、最期をイメージした銅像も建てられています。
司馬遼太郎「城塞」
真田幸村が無名の武将であった九度山幽閉時代から今にまで猛将としての名を残すことになった流れが良く描かれています。
緒方洪庵が開いた適塾。司馬遼太郎は小学生向けの国語教科書(大阪書籍)に書き下ろした文章があるのですが、その1つが5年生向けの「洪庵のたいまつ」というもので、緒方洪庵を紹介しています。 洪庵の弟子がその後医学所を作り、それが大阪大学医学部の前身になったことから現在の適塾も大阪大学が管理しています。→
緒方洪庵
医者であり教育者であった緒方洪庵ですが、司馬遼太郎は「世のために尽くした人の一生ほど、美しいものはない」と彼の一生を表現しています。また、司馬遼太郎は洪庵の一生で「最も楽しかったのは、かれが塾生たちを教育していた時代だったろう」と述べています。もう人格が凄いですね。
武田鉄矢
緒方洪庵が沢山出てたドラマ「仁」では武田鉄矢さんが演じていたので、武田鉄矢さんのイメージが強いかもしれませんね。でも結構雰囲気ありますね。
適塾
緒方洪庵が大坂に開いた私塾でその建物は現存しています。適塾の塾頭には村田蔵六、福沢諭吉などがいます。塾訓の第一条には「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ。」とあると司馬遼太郎は言っていて、これがまさに適塾なんでしょう。
構造
構造模型です。行ってみると結構小さいです。
階段
階段っていうか、完全にハシゴに近いのですが、階段です。危ない。
二階
先ほどの階段から二階に上ると広間が。こちらで福沢諭吉や大村益次郎ら塾生が寝起きしていたそうです。一人一畳で30人くらい生活できそうな空間です。
緒方洪庵像
適塾の敷地内には銅像もあります。
司馬遼太郎「洪庵のたいまつ」
「二十一世紀に生きる君たちへ」に併載されています。