姫路城下町の英賀城伝説
兵庫姫路城下町の英賀城伝説
まいどまいど! 英賀保駅付近にはかつて英賀保城があったといい、各所に遺構が現存。 英賀城は別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城と称された。 東は水尾川、西は夢前川、南は播磨灘に囲まれた地に築城。 本丸にあたる英賀神社本殿裏に残る土塁以外の遺構は住宅地などに転用され、姿を消した。 英賀神社の祭神は英賀津彦神、英賀津姫神、菅原道真、誉田別天皇(応神天皇)、天兒屋根命(春日大社本神)。 英賀の地名は伊和大神の子、阿賀比古と阿賀比売の二神に因み、英賀は伊和族(播磨国一宮伊和神社(宍粟市一宮町)の伊和大神を祀る氏族)の平野部での一拠点。 1517年、英賀六代城主三木通規の家臣神出左衛門の母妙蓮尼によって英賀本徳寺が建立。 本尊は阿弥陀如来。 当時、英賀は浄土真宗に帰依した三木一族を中心に運営される自治都市「寺内町」で、大阪の石山本願寺と深い関係にあった。 1580年、信長の命を受けた羽柴(豊臣)秀吉によって「寺内町」は消滅。 英賀本徳寺は亀山へ移った。 かつての時代を偲びつつ、英賀神社や英賀保城址公園などを散策してみまひょ。
英賀城は別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城と称された。 東は水尾川、西は夢前川、南は播磨灘に囲まれた地に築城。 本丸にあたる英賀神社本殿裏に残る土塁以外の遺構は住宅地などに転用され、姿を消した。 1430年代、赤松祐尚によって築城。 戦国時代、赤松氏以降は三木氏に支配。 1577年、織田信長は中国攻めを開始し、羽柴秀吉に命じて播磨国へ侵攻。 1578年、別所長治の三木城落城。 1580年、三木通秋が籠もる英賀城も落城。
英賀城は別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城と称された。 別名、牛地蔵。 当地は英賀城の内堀跡にあたる。 1681年、法寿寺が建立され、英賀薬師となった。 その北裏の小溝に橋板があり、野良行の「牛」が橋を渡らず、農夫が不思議に思い、良き手がかりはないかと、裏側をうかがうと「地蔵尊」のお姿があり「牛の仏心」に村人達は深く感銘し、崇敬のため、この地にお祀りした。
かつて付近には英賀城の二の丸があったとか。
大東亜戦爭英賀戦歿勇士之廟所。 1580年、英賀城が秀吉軍に攻められ、落城。 1681年、英賀薬師は英賀城主の三木氏の所縁の人の手により創建。 落城前、法寿寺があったとか。
公園内は落城した英賀城の野中口之跡として知られている。
公園内は落城した英賀城の野中口之跡として知られている。
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公園内は落城した英賀城の英賀城の山科口之跡として知られている。
祭神は英賀津彦神、英賀津姫神、菅原道真、誉田別天皇(応神天皇)、天兒屋根命(春日大社本神)。 700年頃、創建。 英賀の地名は伊和大神の子、阿賀比古と阿賀比売の二神に因んだもの。 英賀は伊和族(播磨国一宮伊和神社(宍粟市一宮町)の伊和大神を祀る氏族)の平野部での一拠点。 1443年、菅原道真公・誉田別天皇・天兒屋根命を合祀、英賀天満宮と呼ばれた。 梯子獅子・拝殿練り、英賀獅子、高町獅子で有名。
熊野山新宮権輿大雄禅寺
1325年、鐘身には陽鋳の銘文が刻まれ、熊野新宮にあった「熊野山新宮権輿大雄禅寺」の鐘として造られた。 南北朝時代の戦乱の際、熊野水軍の陣鐘とされ、海に沈んだが、引き上げられて奉納。
当地は落城した英賀城の岡芝口之として知られている。
1517年、英賀六代城主三木通規の家臣神出左衛門の母妙蓮尼によって英賀本徳寺が建立。 本尊は阿弥陀如来。 当時、英賀は浄土真宗に帰依した三木一族を中心に運営される自治都市「寺内町」で、大阪の石山本願寺と深い関係にあった。 1580年、信長の命を受けた羽柴(豊臣)秀吉によって「寺内町」は消滅。 英賀本徳寺は亀山へ移った。
山号は消雲山。 宗派は浄土真宗、真宗大谷派。 1517年、英賀六代城主三木通規の家臣神出左衛門の母妙蓮尼によって英賀本徳寺が建立。 本尊は阿弥陀如来。 当時、英賀は浄土真宗に帰依した三木一族を中心に運営される自治都市「寺内町」で、大阪の石山本願寺と深い関係にあった。 1580年、信長の命を受けた羽柴(豊臣)秀吉によって「寺内町」は消滅。 英賀本徳寺は亀山へ、英賀門徒の多くが龍野町、飾磨田町(玉地)などへ移されたが、明蓮寺は唯一残った。 1937年、英賀本徳寺は当時、歌野橋上流にあったが、夢前川の改修付け替え工事によって遷座。
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「播磨鑑」によると1580年、羽柴(豊臣)秀吉の英賀攻略の際、弟の秀長が山崎山に陣を敷いた。 英賀三木家一族の山崎総右衛門は武勇を尽くすも大勢に囲まれ自刃。 「長十四間 横八間、陣小屋を掛」とある(播州古城跡集)。 また付近の本徳寺は裏千家 玄々斎門人 今晩庵菩提所となっている。
1846年、旧才崎橋東詰付近に建立。 高さ約3m。 発起人は角本武右衛門、吉田常右衛門、山澤孫兵衛。 世話人は木村清太夫、山下利平ら。 山崎の地は古くから室津道の夢前川東渡し場として栄え、西国大名の往来や室津港からの讃岐国「琴平」参りの旅人が利用した。 一方、四国路に旅の出ない人々は山崎に「金毘羅大権現」の分霊を祀り、この燈籠に火を入れ、祈願した。