大山街道の史跡を巡る
神奈川大山街道の史跡を巡る
まいどまいど! 神奈川県川崎市内を通り抜ける大山街道とその周辺の史跡や名所をめぐるおでかけプランでんねん。 川崎市内にはぎょうさんの神社、仏閣だけでなく、多摩川などを水源とする神奈川県下で最も古い人工用水路・二ヶ領用水がおまして、独自の歴史がつまっておます。 また、日本の陶芸家として活躍した濱田庄司の足跡をめぐる名所や丹沢の大山詣の道として知られ、江戸の赤坂御門を起点とし、多摩川を渡って二子、溝口、馬絹、荏田、伊勢原、矢倉沢へ至る大山街道などをめぐっていきまっせ。 丹沢の大山詣の道として知られる大山街道は、江戸の赤坂御門を起点とし、多摩川を渡って二子、溝口、馬絹、荏田、伊勢原、矢倉沢へ至る。 大山山頂の阿夫利神社は雨乞いの信仰も集め、五穀豊穣や商売繁盛を願う参拝者が多い。 相模川で獲れた鮎や秦野の煙草なども、この道を通って江戸へ運ばれた。 街道の商人は江戸時代、製造業や卸・仲買いを営んでいた。 大山街道を正式には矢倉沢往還といい、道中奉行所が管轄し、運輸・通信・休泊の機能を備えていた。 往還とは公用旅行者のため伝馬・人足を備える継立村があり、休泊の機能も備えた。
江戸時代、関東地方の各地から相模国大山の山頂に鎮座する石尊権現社(大山寺本宮、阿夫利神社)と中腹の大山寺不動堂(阿夫利神社下社)へと続く参詣道。 「田村通り大山道」や「青山通り大山道」等がある。 大山は雨乞いに霊験のある山として雨降山とも呼ばれ、農民ら山岳信仰、五穀豊穣、雨乞いの神として信仰を集めた。 江戸時代、「大山講」が組織され、「春山」(4月)や「夏山」(7月)には多くの人々が登拝を行った。 道中、白の行衣、雨具、菅笠、白地の手っ甲、脚絆、着茣蓙、腰に鈴をつけ、「六根清浄」の掛念仏を唱えた。 盆・暮れの借金の回収時期に「大山参り」をすれば、半年待ってくれるという恩典も。
日本の陶芸家として活躍した濱田庄司。 1894年、母の実家である太田医院で生まれた。 次男の濱田晋作、三男の濱田篤哉、孫の濱田友緒はいずれも陶芸家、四男の濱田能生は硝子工芸家。 東京府立一中(東京都立日比谷高等学校)、東京高等工業学校(東京工業大学)窯業科を卒業。 板谷波山に師事し、窯業の基礎科学面を学ぶ。 河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて釉薬の研究を行う。 リーチと英国に同行、共同してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯。 ロンドンで個展を開催。 帰国後、沖縄・壺屋窯などで学び、益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を開始。
濱田庄司
第1回重要無形文化財保持者(人間国宝)(工芸技術部門陶芸民芸陶器)に認定、紫綬褒章、文化勲章を受章。 日本民藝館の第2代館長に就任。 1970年、大阪万博の日本民芸館パビリオンの名誉館長を経て大阪日本民藝館の初代館長に就任。 1977年、日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館。
「見ざる・聞かざる・言わざる」で知られた庚申信仰は平安時代に始まる。 江戸時代、この地に作られた庚申塔は大山街道をゆく旅人の道標を兼ねていた。
1997年に開業した商業ビル。 正式名称は「ノクティプラザ」。 由来は溝口の「のくち」+cityから。 ノクティ1とノクティ2から構成。
複合型商業施設。
伊藤ハムフードソリューション
全国の主要百貨店・デパ地下などで、ハム・ソーセージや食肉・食肉加工品・惣菜・サラダなどを販売 和風おろしソースの極厚ハンバーグステーキ弁当。
宗派は日蓮宗。 山号は興林山。 池上本門寺直末6ヵ寺(法言山安立寺・龍燈山善立寺・初香山本遠寺・秋興山浄元寺・法性山圓融寺)の一つ。 陶芸家で第一回人間国宝・文化勲章受章者の濱田庄司の墓も。 1496年、天台宗の本立寺の住持の興林僧都が、夢告により池上本門寺8世日調の弟子となり、日蓮宗に改宗。 地頭で池上本門寺檀越の階方新左衛門宗隆にちなみ現在の寺号に改称。 毎年10 月21 日は宗祖お会式が催される。
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日本の陶芸家として活躍した濱田庄司。 1894年、母の実家である太田医院で生まれた。 次男の濱田晋作、三男の濱田篤哉、孫の濱田友緒はいずれも陶芸家、四男の濱田能生は硝子工芸家。 東京府立一中(東京都立日比谷高等学校)、東京高等工業学校(東京工業大学)窯業科を卒業。 板谷波山に師事し、窯業の基礎科学面を学ぶ。 河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて釉薬の研究を行う。 リーチと英国に同行、共同してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯。 ロンドンで個展を開催。 帰国後、沖縄・壺屋窯などで学び、益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を開始。
陶工・濱田庄司
第1回重要無形文化財保持者(人間国宝)(工芸技術部門陶芸民芸陶器)に認定、紫綬褒章、文化勲章を受章。 日本民藝館の第2代館長に就任。1970年、大阪万博の日本民芸館パビリオンの名誉館長を経て大阪日本民藝館の初代館長に就任。 1977年、日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館。
祭神は天照皇大神。 別名、赤城社、赤城大明神。 江戸時代、矢倉沢往還(大山道)の溝口宿近在の村々の総鎮守。 当時、毘沙門天と弁財天を祀っていた[3]。 明治時代、神仏分離令に従って神像を裏の宗隆寺に移し、溝口村(片町・上宿・中宿・下宿・六軒町・六番組)を統合。 伊勢皇神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称。
溝口神社と簡易水道
赤城社と呼ばれた溝口の総鎮守。 周辺は飲料に不自由し、親井戸から水を引き、完成させた簡易水道の時代。
多摩川などを水源とする神奈川県下で最も古い人工用水路で、神奈川県川崎市多摩区の上河原堰から川崎市幸区までを流れる。 1597年、測量を開始し、約14年後に完成。 名は、江戸時代の川崎領と稲毛領にまたがって流れていたことに由来。 かつては農業用水路としての役割も果たしてきたが、現在は工業用水などに用いられる。 旧三沢川合流から新平瀬川に合流するまでの区間は「二ヶ領本川(新川)」とも呼ばれ、河川法による多摩川水系平瀬川支流の一級河川。 当初、堰はなく自然流入による取水であったが、確実な取水を目的に竹で編んだ蛇籠に玉石を入れたものを取水口に並べて堰止める技法が昭和時代まで使用された。
溝口の名主、丸屋七右衛門。 代々溝口・二子宿の問屋役として宿駅を取り仕切った。 家業の卸売屋も秦野のたばこや厚木の麦などを扱い、繁盛。 ここに屋敷があったとか。
江戸時代、関東地方の各地から相模国大山の山頂に鎮座する石尊権現社(大山寺本宮、阿夫利神社)と中腹の大山寺不動堂(阿夫利神社下社)へと続く参詣道の一つ大山街道を中心とする資料の保存、展示を行っている博物館。 1992年、旧高津町役場跡地に開館。 施設内では歴史、民俗等に関する資料、郷土ゆかりの美術、文学等の作品等を展示。 入口には、伊豆石で作られた高幡不動尊道の道標が展示。
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丹沢の大山詣の道として知られる大山街道は、江戸の赤坂御門を起点とし、多摩川を渡って二子、溝口、馬絹、荏田、伊勢原、矢倉沢へ至る。 大山山頂の阿夫利神社は雨乞いの信仰も集め、五穀豊穣や商売繁盛を願う参拝者が多い。 相模川で獲れた鮎や秦野の煙草なども、この道を通って江戸へ運ばれた。 街道の商人は江戸時代、製造業や卸・仲買いを営んでいた。 大山街道を正式には矢倉沢往還といい、道中奉行所が管轄し、運輸・通信・休泊の機能を備えていた。 往還とは公用旅行者のため伝馬・人足を備える継立村があり、休泊の機能も備えた。
大山小径
1669年、二子・溝口村は継立村となり、久地・諏訪河原・久本・末長の4ヶ村が二子村の、北見方・上作延・下作延の3ヶ村が溝口の助郷村になり、継立村で用意する伝馬・人足が不足の場合は提供することになった。
ドラッグストア・調剤薬局として知られる灰吹屋の蔵。 1765年、北伊勢の国(三重県)より江戸(東京四谷)に上り、種々雑多な商品を扱う萬屋弥宗兵衛として創業。 一代目仁兵衛は総本家灰吹屋(1674年創業)より暖簾分け、灰吹屋薬種店が開店。 当時、江戸には北陸地方の富山から薬売り業者が行商に来ていたが、灰吹屋も繁盛した。
丹沢の大山詣の道として知られる大山街道沿いにあるふれあいの鐘。
大山街道にある田中屋呉服店は1911年築。 瓦屋根、土壁、柱、土蔵を持つ「蔵作り」といわれる建て方で、釘を使用せず、ほぞの組み合わせで材木を組み上げた。 窓は格子、扇垂木造りの出窓がある。
小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者として活躍した。 1871年、千葉県銚子市生まれ。 山口、萩、広島、岩国などに移住。 筆名は独歩、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生など。 田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟客」を発表。 代表作は「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」「春の鳥」「竹の木戸」など。 雑誌「婦人画報」の創刊者で
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小説家、歌人、仏教研究家として活躍した。 1889年、東京都港区青山生まれ 代々幕府や諸藩の御用達を業としていた豪商の大貫家の別邸で誕生。 大貫家は、川崎市高津区二子に居を構える大地主。 腺病質のため父母と別居し二子の本宅で養育母に育てられる。 「女子文壇」「読売新聞文芸欄」などに投稿。谷崎潤一郎と親交のあった兄・大貫晶川の文学活動がはじまり、谷崎ら文人が大貫家に出入り。 与謝野晶子を訪ね「新詩社」の同人となり、「明星」や「スバル」から新体詩や和歌を発表。 長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢へ避暑、追分の旅館油屋に滞在し、岡本一平と知り合う。 後に、岡本太郎を出産。