寺町【築地】&離れ小島【佃島・石川島】へ~築地は昔海だった~
東京寺町【築地】&離れ小島【佃島・石川島】へ~築地は昔海だった~
築地案内人:本願寺の僧侶 南明/佃の渡し 荘吉 天明9年(1789年) 朝日が昇り、築地の寺の屋根を明るく染める。江戸湾に面したこの地からは、佃島の漁師たちが沖を行き来する様子や、上方からの菱垣廻船が隅田川へ入っていく様子を眺めることができる。 その光景に溶け込むように立ち並ぶ寺社から朝の読経の合唱が聞こえてくる。その声におされるように、付近の武家屋敷から江戸城や番所へ出勤していく武士が急ぎ足で歩いている。 江戸市中を旅するお彩は、この付近を案内してくれる人を探していた。 すると前方から一人の僧侶が檀家の法事を終えて帰ってきた。 お彩「お坊様、失礼いたします。築地御坊(築地本願寺)はどちらになりますか?」 南明「この道を二丁歩いて右に曲がったところでございます。あなたは旅のお方で?」 お彩「左様でございます。このあたりに不慣れなものでして」 南明「そうですか。では付近を少しご案内して差し上げましょう。私は本願寺の僧侶、南明と申します」 お彩「ありがたいことでございます」
ほどなく本願寺へ到着した二人。 お彩「立派なお堂ですね」 南明「ええ。門跡宗徒に支えられて建設したんです。ご存知かもしれませんが、100年ほど前までここは海でした。元々浅草にあった本願寺が大火事で焼けてしまいましてね。お上にこの土地を賜ったのですが、陸地でなかったので埋め立てからやらなくてはなりませんでした。お堂を建てるのには随分と苦労したそうです。築地という地名の由来は、皆で築き上げた地だからなのです。」 お彩「なるほど。ご僧侶、ご案内ありがとうございました」 南明「まだ時間があります。よろしければもう少しお供いたしましょう」
南明僧侶に導かれて、築地の守り神である波除稲荷神社へとやってきた。 お彩「漁師さんたちがお参りしていますね」 南明「ええ。海上での災難厄除けを願ってのことでしょう。その昔土地の埋め立てに苦労していた頃、海から引き上げた御神体をここにお祀りすると波が止み工事が順調に進んだそうです。もともと稲荷神社があったのですが、その話から「波除」という名がつきました」
獅子殿
お彩「わぁ~これは立派な獅子頭ですね」 南明「一声で万物を威伏させる獅子を、この神社の功徳の象徴としております。本殿には青龍と白虎の頭もあります」 お彩「お祭りはあるんですか?」 南明「ええ。つきじ獅子祭という祭礼が毎年行われます。この獅子の頭を担いで市中を巡るんですよ」
波除稲荷で参拝した後、南明に別れを告げて江戸湾までやってきた。この辺りには佃島と築地を行き来する渡し船がお客が来るまで停泊している。 お彩「もし、佃島へ行くにはこちらの船へ乗ればよろしいのでしょうか」 荘吉「ええ。あたしが船頭でございます。もし島へご用なら、午後には雨が降りそうだから今のうちに乗ったほうがいいですよ」 こうして船に乗り込み、佃島を目指す。
江戸時代の佃島
佃島はもともと摂津(大阪)の佃村の漁民たちが築いた島。 家康の信頼を得て一緒に江戸に渡った彼らは、代々将軍家に白魚を献上していたそうです。 取れすぎた魚は日本橋の魚河岸で売られ、余った魚を塩漬けにして保存食としたのが「佃煮」。 また、彼らが信仰していたのは地元摂津から勧進した「住吉神社」。浮世絵にあるのはこの神社の祭礼「海中渡御」で立てられた大きな幟のようです。
佃煮 天安本店
佃煮発祥の老舗佃煮屋さん。 創業(1837年)当時からの製法を守り、175年受け継がれてきた自慢の「たれ」で味付けをしているそうです。 日持ちも良く、ミネラルやタンパク質を豊富に含む佃煮は栄養価も高く良質な食べ物です。
佃煮を買い、帰路も荘吉の渡し舟に乗った。後ろを振り返ると、佃島と並んで石川島(月島)が見えた。 荘吉「お客さん、長谷川平蔵って知ってるかい」 お彩「人足寄場をつくったお役人ですね」 荘吉「そう、石川島に無宿人を集めて手に職をつけさせてるんだよ。近頃の農村の飢饉で、田舎で食べられなくなった連中がどんどん江戸に流れ込んできているんだ。」 お彩「職はあるんですか?」 荘吉「見つけるのは難しいよ。だから食うために悪事を働くやつもいる。そうなる前に技術を身につけさせて職を探しやすくするのが人足寄場なんだ」 お彩「無宿人をなくして江戸の治安を守っているんですね」
江戸時代の更生施設
石川島の人足寄場では、飢饉などで田畑を捨て江戸に流れ込んできた無宿者や軽罪人を約3年間収容したそうです。 ここでは生活指導や職業訓練による自立支援、再犯防止のためのプログラムが行われていたとのこと。 ここでは仁義忠孝や仏教の因果応報などの教訓を聞かせる時間を設けていたそうです。この話は収容人たちの社会復帰にあたって精神的な支えとなったとのこと。