
再発見!別府温泉レトロスペクティヴ
大分再発見!別府温泉レトロスペクティヴ
大分県別府市…昭和元禄花盛りの頃は「西日本随一の歓楽街」と謳われた巨大温泉観光都市。 現在でも1日当たりの湧出湯量は日本最大、市内の源泉数は日本の総源泉数の1割を占めるそう。 おまけに日本に存在する泉質のうちラジウム泉以外すべて揃っています。 つまり別府の温泉すべてに入浴すれば、日本に存在する泉質のほとんどを体験できるのです。 まさに“おんせん県”大分を牽引する「泉都」なのであります! だかしかし! 市内の繁華街は古ぼけ、高度経済成長期がそのままフリーズドライで保存されているかのよう。 しかも空襲を受けていないので、戦前の建造物もチラホラと現存。 まるでタイムスリップに陥ったかのような錯覚を覚えます。 先の熊本地震では別府も震度5強の激しい揺れに襲われました。 が!市内はそれほど被害を受けておらず、町の表情は何一つ変わってません。 懐かしい…けど新しい! 驚きのレトロスペクティヴを再発見しに、別府へ足を運んでみませんか?
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そもそも「別府温泉」とは何なのか? その歴史から紐解いていきましょう。 別府温泉は8世紀初頭に編纂された「伊予国風土記」に記されていたほど、昔から存在しておりました。 現在のような温泉歓楽街になるキッカケは明治4(1871)年。 当時の県令(今の県知事ね)松方正義が別府に港を築いたことでした。 瀬戸内海の各都市を経由して大阪とを結ぶ航路が開設され、まだ鉄道が通っていなかった当時、別府に関西方面からの湯治客が押しかけることに。 こうして「西日本随一の歓楽街」への礎石が築かれることとなりました。
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ゆめタウン別府
海岸沿いにある大型ショッピングモール。 ですが注目点は、このモールそのものではありません。 上空からの写真を見ると分かりやすいのですが。 松方県令が築いた元々の別府港「別府楠港」はココにあったのです。 その港を埋め立てた跡地に、このモールは立ってるわけですね。 この場所から別府の繁華街が広がっていったという歴史的事実の遺跡として。 別府繁栄の原点はココ!という意味で、真っ先に取り上げました。
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油屋熊八
別府温泉を全国的な観光地に押し上げたのは、ある先覚者の存在でした。 その人は“ピカピカのおじさん”こと油屋熊八。 大正時代、別府にホテルを建て、バス会社を設立し、女性バスガイドによる案内付き定期観光バス(←日本初!)を運行するなど、当時としては画期的なアイデアを連発。 さらに「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを刻んだ標柱を全国各地に建てて回って別府をアピールしたのです。
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別府駅
日豊本線が小倉から別府まで延伸したのは明治43年。 別府港の開港から遅れること40年後のことでした。 航路に加えて鉄道によるアクセスも可能となったことで、別府を訪れる行楽客は飛躍的に増大。 しかも鉄道敷設に関わった人たちが開通後も別府に残って観光開発に注力し、様々なアトラクションが雨後のタケノコのように乱立。 戦前の別府は今のTDRをも凌ぐ一大温泉テーマパーク状態と化したのでした!
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フェリーさんふらわあ
太平洋戦争の敗戦で別府の繁栄は潰えるかと思いきや、進駐軍に接収されてアメリカナイズ! 返還後に訪れた高度経済成長の波に乗り、様々なレジャー要素がハイブリッドされた別府は「西日本随一の歓楽街」の座を確立するのでした。 さて、別府と大阪を結ぶ旅客航路ですが…今でもあります! その名は「フェリーさんふらわあ」。 ブルートレインが全廃された今、宿泊する船旅もなかなか風情がありますよ!
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大分空港
高度経済成長に訪れたモータリゼーションの影響で、時間のかかる船旅は敬遠されるように。 しかも別府楠港は昭和42(1967)年に現在の別府国際観光港へ移転。 別府の中心街は一気に沈滞化していきます。 だがしかし! おかげで昭和の風情が損なわれることなく、今に残されているのかも。 最近ではLCCジェットスターが大分/成田間で格安定期便を運航しているせいで、関東方面からの観光客も急増中だそうですよ!
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別府駅前から伸びる約500mほどの商店街。 まさに“別府の顔”だけに通称“シンボルロード”。 電線類が地中に埋め込まれているので電柱が一本もなく、とてもスッキリしています。 昔は数多くの土産物屋が軒を連ねていたそうですが。 現在では飲食店が目立ち、あまり商店街って感じはしないです。
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駅前高等温泉
別府駅東口から駅前通りを進むと右側に姿を表す英国風の一軒家。 大正13(1924)年に建てられた外湯(公衆温泉)で、一人200円で入浴できます。 この大正浪漫の香りを漂わせたレトロな建築様式は、柱や斜材を外部に現わした英国流「ハーフチェンバー」と呼ばれる型式だそうです。 宿泊用の客室も備えているので宿泊も可能ですよ。
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別府ブルーバード劇場
駅前通りに佇む、昭和24(1949)年創業という老舗の映画館。 女性の岡村照館長が一人で切り盛りしています。 シネコン全盛の今、単館の劇場は極めて貴重な存在。 そのレトロさゆえ、阪本順治監督の作品「顔」(2000年)のロケにも使用されました。 ここは封切館ではなく、館長が良質な新作を自らセレクトして上映しているのが特徴。 まさに別府の「岩波ホール」です。
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トキハ別府店
地元百貨店の別府店です。 本店は大分市にあるのですが、店舗の規模としては別府のほうが大きそう。 出来たのは昭和63(1988)年とバブル全盛期。 おかげで駅前の別府近鉄百貨店が閉店に追い込まれ、更地になってしまいました。 一方のトキハも店舗が大き過ぎるせいか、一部フロアをテナントやオフィスに貸し出してます。 地方百貨店の経営はどこも厳しいので、こうして存在しているだけでも貴重なのかも知れません。
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“湯のまち”別府は市内の至る所で温泉が湧き、外湯(公衆温泉)が気軽に楽しめます。 中でも別府温泉のシンボル的存在として別格なのが、ここ竹瓦温泉。 誕生したのは明治12(1879)年。 最初の建屋は屋根が竹葺きで、後の改築時に瓦葺きになったので「竹瓦温泉」と呼ばれるようになりました。 当時は神経痛やリウマチなど体が不自由な湯治客でも楽に来られるよう、周囲に宿屋が林立していたとか。 別府楠港に旅客船が着くたび、乗客たちは押し合いへし合いしながら竹瓦温泉を目指したそうですよ。
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建屋
現在の建屋は昭和13(1938)年に建設されたもの。 正面に唐破風造(からはふづくり)の豪華な屋根を備えているのが特徴。 その昔、東京の下町にも唐破風屋根を持つ銭湯が数多く存在していました。 東京の銭湯が竹瓦温泉を真似したのか? それとも唐破風屋根そのものが当時の流行だったのか? それは分かりません。
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ロビーと天井
ロビーの高い天井は昭和初期のイメージを今に伝えています。 ロビーは健康ランドの大広間ほど広くはありませんが。 湯上りに牛乳でも飲みながら寛ぐには十分なスペースです。
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内湯
残念ながら(?)男湯と女湯に分かれてます。 タオルや石鹸など無料アメニティ類は一切ナシ! すべて有料です。 タオルぐらいなら御土産代わりに買ってもいいかも。 泉質は炭酸水素塩泉。 効能は…いろいろです。
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砂湯
竹瓦温泉の名物といえば、何といっても砂湯! 浴衣を着て砂の上に横たわれば、砂掛けさんが温泉で暖めた砂を上からかけてくれます。 休日は大混雑で相当時間待たされることもあるそう。 なので…狙い目は平日の夕方でしょう!
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猫
竹瓦温泉は平成16(2004)年、国の登録有形文化財に登録されました。 文化財の前に設置されたベンチで寛ぐ猫。 ちなみに猫は入湯できません。
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一本の細くて古びた木造アーケードが竹瓦温泉の門前から伸びています。 店の軒下ではなく道路全体を覆うタイプの「全蓋式」アーケード。 誕生したのは大正10(1921)年といいますから、100年近くなります。 もちろん日本最古…というか「アーケード」という言葉すらなかった時代。 当時の天井はガラス張りだったといいますがら、イタリアの各都市にある商店街「ガレリア」のようなものでしょうか。 日本最古ということは、日本初ということ。 四国や関西から視察に訪れる人がいたほど最先端の商店街だったそうです。
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「西日本随一の歓楽街」の生き証人
別府楠港から一直線に伸びる流川通り。 大正から昭和にかけて最盛期には夜の帳が下りるとネオンが煌めき、不夜城とも夜の来ない街とも謳われました。 現在その面影はすっかり潜めてしまいましたが、まさに往時は「西日本随一の歓楽街」そのものだったそうな。 夜中も観光客が浴衣で歩く姿を見て、流川通りと竹瓦温泉を雨に濡れず行き来できるように…との配慮から、竹瓦小路は生まれたのだそうです。
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屋根付き商店街発祥の地
今の竹瓦小路は飲食店が散在するだけの閑散とした商店街ですが。 当時は別府絞り、つげ櫛、化粧品、竹細工、おもちゃ屋などが軒を連ね、大いに賑わったそう。 また、竹瓦小路の繁盛ぶりを見て、別府の繁華街には次々とアーケードが作られました。 モータリゼーション到来前は車で移動する人も少なく、風雨から買い物客を守るアーケードは大人気。 次第に日本中の商店街へと広まっていきました。
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海へ抜ける道
その後、竹瓦小路は真ん中に海岸側へ抜ける細い道を設けました。 道の両側には魚屋や総菜屋などが並び、夕飯時には買い物客でごった返したそう。 商店は姿を消しましたが、道そのものは健在です。
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猫
別府楠港の移転を契機に、竹瓦小路は次第に寂れていきました。 一時期は荒廃が進み、撤去の話も出るほどに。 転機が訪れたのは竹瓦温泉の国登録有形文化財指定。 これを機に竹瓦小路も保存・再生のための運動が進められているそうです。 そんな人間界の苦悩など露知らず、猫が悠然と歩いていきました。
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東京に東京タワーが 大阪に通天閣が 名古屋と札幌にテレビ塔が 福岡に博多ポートタワーが それぞれあるように 別府には…別府タワーがあります! 完成は昭和32(1957)年5月10日。 1960年代に入り高度経済成長期を迎えると年間100万人近い観光客を集め、別府を代表する観光スポットになりました。 ただ、別府タワーはテレビ塔ではないので安定収入があるわけでなく。 高度経済成長時代が過ぎると経営危機に陥り、解体の危機に見舞われるのですが何とか生き延び。 平成19(2007)年には国の登録有形文化財に指定され、別府の宝物となりました。
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タワー六兄弟
先に挙げた6つのタワー、実は設計者が全て同じ人物です。 “塔博士”として名を馳せた建築士、内藤多仲。 この縁から6つのタワーを総称して「タワー六兄弟」と呼ばれるようになりました。 別府タワーは名古屋(1954年)→二代目通天閣(1956年)に次ぐ“三男坊”。 弟は、さっぽろ(1957年)→東京(1958年)→博多(1964年)の順になります。
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地上約50mのラウンジからは別府の夜景が一望!
別府タワーは4階建ビルの上に立つ形状をしています(←京都タワーより先!)。 なので地上55mにある展望台は17階に相当。 その下の16階にはラウンジがあります。 チャージ300円が必要ですが、展望台が閉館後も午前1時まで営業しています。 別府の夜景を肴にお酒を楽しめるとは…なかなか粋な酒場です。 1階には多国籍料理のレストラン・バーがありますよ。
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地震
4月に発生した熊本地震で別府タワーも被災、休業したのですが。 張り紙に「施設内」とある通り、タワーの構造そのものに影響はなかったものと思われます。 なぜなら“塔博士”内藤多仲は別名“耐震建築の父”とも呼ばれていたから。 六兄弟の中では最も地味な別府タワーですが、実力は兄弟たちに負けず劣らずです。
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駅前通りと流川通りを結ぶアーケード商店街「やよい天狗通り」。 駅から歩いて5分という立地の良さゆえ、かつて別府で最も栄えた商店街だそうです。 が、全国の駅前商店街が軒並みシャッター通り化している昨今の例に漏れず、ここも活気が失われている様子。 しかも、ゆめタウン別府やトキハデパートなどの大型店が近接しているのも商店街としては痛いかも。 とはいえ完全にシャッター通り化しているわけではなく、まだまだ元気なお店が並んでますよ。
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シャッター通りに見えますが…
夕方だったので一般店舗は閉店の後。 飲食店が結構あるので、夜になると賑やかになりますよ!
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やよい天狗
商店街を進んでいくとアーケードが尽きるあたりに巨大な天狗が据えられてます。 それにしても、なぜ天狗? 天狗には火除けの神通力があるとされることから、昭和48(1973)年に火災予防の神様として巨大な天狗みこしを建立。 毎年4月の「別府温泉まつり」には文字通り担ぎ出されるそうです。
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ニャンか用かニャ?
やよい天狗通りに猫が多いのにはワケがあります。 猫は山のモノノケの化身。 山の長老に命じられ、天狗の悪さを監視している…のだそうです。
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別府銀座商店街、通称「ソルパセオ銀座」。 駅前通りと流川通りを結ぶ、やよい天狗通りと並行に走るアーケード商店街です。 初代アーケードは昭和30(1955)年に完成。 昭和45(1970)年にはカラー舗装化されて華やかに。 昭和53(1978)年、アーケードは老朽化のために立て替えられました。 それが現在の二代目「虹のアーケード」。 昔からある老舗と新しい店が混在する、メリハリの効いた商店街ですよ。
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「銀座」の冠を戴く商店街
ソルパセオ銀座に軒を連ねる店の半分弱が飲食店。 昼は老舗の商店、夜は居酒屋やバーと棲み分けてる感じです。 ただ、商店は経営者の高齢化や後継者不足で継続が難しそう。 昼のほうが閑散としている印象です。
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銀座土産品センター
入り口の少し先にある、まさに「ザ・昭和」といったテイストの土産物店。 初代アーケードが出来た当時の別府銀座は土産物屋さんがメインで、主な顧客は修学旅行生だったとか。 しかし旅館やホテルが館内に土産物販売店を備え出したため、商店街からは次々と姿を消すことに。 こうした土産物屋さん、どこの温泉街にも昔よくあったのですが。 すっかり姿を消して、今や貴重な絶滅危惧種といえそうです。
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高齢化社会を逆手に取った居酒屋
商店街の中ほどに「昭和ミュージアム夢倉庫」「一風舎」といった、昭和テイストを売り物にした居酒屋が並んでいます。 古き良き昭和の別府を求めて訪れた年配の方々の興味を引きつけているようです。
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ナショナルマーク
社名が「パナソニック」に統一された今、ナショナルも松下電器も見かけることはなくなりました。 そんな中、電気屋さんには今も誇らしく「ナショナル」マークが掲げられています。 別府タワーには長いこと「ナショナル」のネオンサインが輝いていました。 しかし昭和62(1987)年に広告契約が終了し、ナショナルの文字は消えてしまいました。 その歴史を別府銀座の小さな電気屋さんが継承しているわけですね。
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元町ポケットパーク
ナショナル電気屋さんの先に市民の交流スペース「別府まちなか交流館」があります。 その前庭が「元町ポケットパーク」という小さな公園になっています。 そこに立っているモニュメント。 先述した油屋熊八の「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というコピーを具象化したものです。 てっぺんが富士山、真ん中の穴が瀬戸内海、モニュメント全体が別府の湯煙りを表現しているそうですよ。
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ソルパセオ銀座を抜け、流川通りを挟んだ向かい側に続くアーケード商店街。 といっても、ほとんどの店がシャッターを降ろし、営業している店は数えるほど。 やよい天狗商店街やソルパセオ銀座のような飲食店も殆どなく、夜間も照明が消されて真っ暗闇。 既に役目を終えている感が強い商店街です。 先述した通り、大正から昭和にかけて別府の繁華街は別府楠港を中心に発展してきました。 楠銀天街は楠港の直近に位置している恩恵を最大限に受け、別府最大の繁華街として我が世の春を謳歌していました。 だがしかし! 別府港が移転し、自動車社会が到来すると、駐車場もない楠銀天街は一気に凋落していったのでした。
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軒を連ねる店構えの重厚さを堪能したい商店街
どうやら全盛期から一気にシャッター通り化した様子。 やよい天狗通りやセルパセオ銀座のように新規の飲食店が進出している気配もありません。 店舗の新陳代謝が殆ど行われていないようです。 そのため繁盛していた時代の雰囲気が、まるで真空パックされたかのように今に残されています。 楠銀天街そのものが「レトロスペクティヴ」な空間と言えるでしょう。
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看板のロゴタイプが証明する富の蓄積
マルト衣料…といってもシャッターの錆びれ具合から、営業を止めて随分と経つようです。 看板を見るとシャッターとロゴデザインが同じ。 ということは、プロのデザイナーに相応の対価を支払って、キチンとデザインしてもらったのでしょう。 ロゴのデザインといい、間口の広さといい、往時には相当繁盛した店舗かと思われます。 店の佇まいから富の蓄積を偲ぶレトロスペクティヴです。
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海鮮いづつ
流川通りから入ってすぐのところにある居酒屋。 一目で「ここだ!」と直感したのですが、中を覗いたら満席みたいだったので諦めました…残念!
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寿し いろは
いづつの隣にあるお寿司屋さん。 「すしいろは」と刻まれた丸い看板は楠銀天街の象徴。 現在では下に降ろされていますが、昔は看板として軒の上に掲げられていました。 昭和30〜40年代の楠銀天街の様子を描いた絵葉書などにも、丸い看板がクッキリと浮かんでいます。
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名も無き中古レコード店
「こんなところに中古レコード屋が…」 そう思って写真を撮っていたら… 「写真は撮らんとってください!」 中から店主が出てきて怒られてしまいました。 それはともかく、この店は商店街再生のモデルケースになるのでは? 中古レコードのようにこだわり度の高い商品を扱い、宣伝と販売はネットを主体にして店舗は倉庫と割り切る。 こうすれば地方の寂れた商店街でも全国の商圏相手に商売できる…というわけです。
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中浜不動尊
商店街の中程にある鎮座している立派なお地蔵さん。 商店街側は公共的なスペースになっています。
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ソルパセオ銀座の中程、Bar井ノ上(下記参照)の角を曲がったところに輝く煌びやかなネオン。 そこが“海鮮ファミレス”二十八萬石総本店です。 ファミレスを標榜していますが、中身は紛れもない居酒屋。 カウンターありテーブル席ありで一人からグループまで、気軽に利用できます。 刺身や焼き魚、大分の郷土料理「りゅうきゅう」などの魚料理はもちろん。 大分名物「鳥天」「鳥ももからあげ」など鳥料理も充実。 別府で大分料理を食べるなら、ここを選べば間違いないと思います。
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ソルパセオ銀座の中程に佇むオーセンティックなバー。 カクテルメニューが充実していて、車の運転などお酒がNGの人でもノンアルコールカクテルが楽しめます。 正統派のバーには珍しく、フロアはテーブル席ではなく座敷席です。 このプランに記した別府情報、その多くは実はマスターとの会話から得られたもの。 いいバーのある街は、素敵です。