みなとまち・高砂の繁栄と工楽松右衛門
兵庫みなとまち・高砂の繁栄と工楽松右衛門
まいどまいど! 兵庫県の播磨地域に属している高砂市には山陽電気鉄道が東西方向に走り抜け、市内中心部に位置する高砂駅は特急も停車しますねん。 駅前やその周辺には昔ながらの雰囲気が色濃く残っているとして人気を集め、国内外から観光客が絶えないとか。 かつては海運業が盛んで、江戸時代には港が整備。 まちには舟の積み荷が集積し、蔵が乱立していたという。 現在も蔵の一部が現存し、外部から見学も。 周辺には由緒ある高砂神社が鎮座し、能で取り上げられた「高砂」ゆかりの地。 姫路藩主池田輝政が築城したとされる高砂城の伝説も色濃く残り、かつての面影を偲ばせる。 境内の2本の松は縁結びにご利益があるとされ、参拝者が絶えないとか。 軽くて丈夫な帆布の考案者である工楽松右衛門の出身地とされ、邸宅跡が博物館として整備され、自由に見学することができまんねん。 その他、国鉄という愛称で親しまれた日本国有鉄道高砂線の高砂駅跡があり、広場として整備。 ここから眺める寺院仏閣や昔ながらの雰囲気が残る銭湯など街並みが面白い。 街歩きを堪能した後には高砂名物の穴子を使用した穴子飯やにくてんのグルメもおすすめ。
別名、高砂牛頭天王。 尉(伊弉諾尊)と姥(伊弉冊尊)の2神が宿る霊松「相生の松」で知られ、能・謡曲の舞台「高砂」の一つ。 祭神は素盞嗚尊、大己貴命、奇稲田姫。 境内には雌株・雄株という黒松と赤松の2本の松が寄り添うように生えた相生の松があり、縁結びや永遠、長寿を象徴。 能「高砂」では、高砂の松と住吉の松とが相生の松であるとし、夫婦和合を謳っている。 神功皇后の西征は大己貴命の加護によって果たされ、その凱旋の際、大己貴命の神託を受けて創建。 天禄年間に疫病が流行し、素盞嗚尊・奇稲田姫を祀ったところ、疫病が治まったとも。 江戸時代、高砂は漁業や海運業の拠点として発展、これらに関係する借地願も現存。
江戸時代、漁師の宮本松右衛門の長男として生まれた。 1785年、兵庫津(神戸市)の廻船問屋の船頭となり、従来の破損しやすい帆に代わり、木綿を使った厚手の帆布「松右衛門帆」を開発。 北方領土の択捉島でふ頭を建設。 1802年に幕府から工楽姓を与えられ、北海道・函館のドック築造や広島県・鞆の浦の築港などに携わった。
1601年、姫路城主の池田輝政は高砂城を築城のため、当社を遷座。 1615年、幕府による一国一城令により高砂城が廃城。 姫路城主の本多忠政が当社を高砂城跡の旧社地に復した。
1935年、高砂消防会館として建設。 2015年、老朽化に伴い、新庁舎に移転。 2016年、消防本部高砂分署の旧庁舎を展示施設として改修、保存。 大正時代に使われた手動の消防ポンプが展示され、平屋部分には看板「旧南本町巡査派出所」が掛けられていた。
荷物を舟から揚げ降ろしした雁木と呼ばれる石階段や地元産の竜山石などで築かれた南堀川西岸の石垣などの遺構が復元。 江戸時代、南堀川が開削された人口運河。 高砂は漁業や海運業の拠点として発展し、港町高砂の物流の中心地となった。 加古川舟運と瀬戸内開運を利用して舟で運ばれてきた積み荷は南堀川の川岸に沿って立ち並ぶ蔵に収納。
新選組隊士で勘定方として活躍。 1838年、米問屋を営む家庭で生まれた。 大阪の商家に嫁いだ妹が推薦し、新選組に入隊。 隊費の経理面で勘定方として活躍、池田屋事件にも参戦し褒賞金も手にした。 1866年、自刃。
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江戸時代、発明家で実業家として活躍。 1743年、漁師の長男として生まれた。 1758年、船主「御影屋」の下で船乗りに。 廻船問屋北風荘右衛門に知己を得て、船持ち船頭として独立。 兵庫(兵庫県神戸市兵庫区)で廻船業を経営する傍ら、帆布改良の研究に着手。 播州の特産の木綿を使った厚手で大幅な新型帆布「松右衛門帆」の織り上げに成功し、北前船をはじめとする大型和船の航海術は向上。 1790年、択捉島に船着場を建設。 1791年、ロシア帝国の南下政策から領土保全を図る目的で築港工事法を考案し、石鈴船・石救捲き上げ装置の発明、択捉島の埠頭や箱館のドックを築造、防波堤工事などを手がける。
工楽松右衛門旧宅
江戸幕府から功績を賞され、「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」の姓を与えられる。 択捉開発や蝦夷地交易に使った函館の地所を、高田屋嘉兵衛に譲る。
江戸時代、高砂は漁業や海運業の拠点として発展し、港町高砂の物流の中心地となった。 姫路藩主の池田輝政が港整備を行い、明治時代まで物資の集積地として、また船の寄港地として繁栄。 加古川舟運が栄えていた当時、堀川周辺には多くの荷揚げ倉庫が立ち並び、本瓦葺き屋根の蔵が集まっていた。 1913年、加古川の舟運を代替する目的で設立された播州鉄道が開通し、衰退。
江戸時代、高砂は漁業や海運業の拠点として発展し、港町高砂の物流の中心地となった。 三連蔵は南堀川が開削された人口運河の付近にあり、荷物を舟から揚げ降ろしした雁木と呼ばれる石階段や南堀川西岸の石垣などが存在。 加古川舟運と瀬戸内開運を利用して舟で運ばれてきた積み荷は南堀川の川岸に沿って立ち並ぶ蔵に収納。
1904年、神戸製紙所高砂工場内で、アメリカ人技師長M.J.シェイの居住施設として建設。 1905年、三菱製紙所へと社名変更し、現在地へ移築し、同社の厚生施設「三菱製紙魚町倶楽部」として現在に至る。
1800年代、姫路藩家老・河合寸翁の命によって創設された学問所。 当時、高砂の大年寄であった岸本吉兵衛が土地・建物を提供。 木造平屋建で寄棟造、本瓦葺き、20畳の座敷1室と奥の間3間がある。 中国の古典などを教材として、教授は高砂出身の菅野松塢、三浦松石、美濃部秀芳(憲法学者の美濃部達吉の実父)ら。 都市整備に伴い、加古川市に移築。 再び、高砂市内に移築。
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浄土宗西山禅林寺派の寺院。 山号は、宝瓶山。 本尊は、阿弥陀如来。 815年、唐より帰朝した空海によって、「地蔵十輪経」に基づく地蔵山十輪寺と号した真言宗の寺院であった。 1207年、法然が地元の漁師に説法したことから、法然の弟子・信寂房が、中興開山に迎えて、再興した。 1527年、大坂・堺の僧が讃岐の生福寺に詣で、法然自画自賛の「宝瓶の御影」を得て当寺に寄贈。 以来、山号は、宝瓶山。
美濃部達吉、亮吉、親子の功績を知ることができる「美濃部親子文庫」が保管されている。 東京帝国大学教授(法学博士)として活躍し、天皇機関説でも著名であった美濃部達吉先生の蔵書を美濃部文庫として公開。 また、元東京教育大学教授(経済学博士)で後に、東京都知事、参議院議員を歴任された美濃部亮吉先生の多数の貴重な蔵書、資料も展示、公開。
1932年、旧高砂銀行本店(後の神戸銀行、太陽神戸銀行)として建設。 1980年、高砂商工会議所会館として使用。 商工会議所法に基づき設立された国内で唯一の地域総合経済団体として運営されている特別認可法人。
高砂地区にあるコミュニティーセンター。
大西唯次
1891年、加古川町寺家町で大西平八郎の三男として誕生した発明家。 13歳で日本毛織に入社し、退職後、時計商を営む。 大正時代、機械が好きでエンジン自作や動力付スケーター、モーターボート、プロペラ四輪車、カーラジオなど幅広く製作した他、特に垂直上昇機(後のヘリコプター)の研究を重ねた。 昭和時代、世界で初めてその技術を考案し、特許を取得。
申義堂
1800年代、姫路藩家老・河合寸翁の命によって創設された学問所。 当時、高砂の大年寄であった岸本吉兵衛が土地・建物を提供。 木造平屋建で寄棟造、本瓦葺き、20畳の座敷1室と奥の間3間がある。 中国の古典などを教材として、教授は高砂出身の菅野松塢、三浦松石、美濃部秀芳(憲法学者の美濃部達吉の実父)ら。 都市整備に伴い、加古川市に移築していたが、再び、高砂市内に移築し、現在に至る。
江戸時代、姫路藩を代表する特産品の一つとして、また、謡曲「高砂」に謡われた高砂神社の「相生の松」をモチーフにして生まれた「高砂染め」の創始者として知られる尾崎庄兵衛氏の生家。 現在、生家を多目的スペース「高砂や」として改装し、無料休憩所として利用できるため、市民の憩いの場として親しまれている。
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高砂など播磨地域の名産の一つとして知られる穴子などを味わうことができる飲食店。 店内は高砂染め発祥の地「高砂や」の奥座敷。
穴子重
メニューは穴子のせいろ蒸し、穴子重、茶そばなど。
兵庫県高砂市内にある商店街。 付近の本町商店街などに接続する。 商店街には飲食店や居酒屋、雑貨店などが立ち並ぶ。
レトロ
レトロな雰囲気が漂う商店街。
鮮魚や天ぷらなどを製造販売する仕出し専門店。 店内には刺身や天ぷらをはじめ、弁当も。
焼穴子の穴子ちらし
穴子を使用した焼穴子の穴子ちらし。 その他、穴子箱ずしも。
かつめし
播磨地域名物のかつめし。
1943年、風呂屋(銭湯)として開業。 建屋は木造建築で、玄関側はモルタル造り、建物側面と煙突には煉瓦が使われた混構造。 現在も薪を使用して湯を沸かすという数少ない銭湯。 最近では2001年に公開された日本の長編アニメーション映画「千と千尋の神隠し」を連想させると人気。
高砂駅は兵庫県の加古川市にある加古川駅から高砂市にあった高砂駅までを結んでいた日本国有鉄道(国鉄)高砂線の停車駅の一つ。 1913年、加古川の舟運を代替する目的で設立された播州鉄道が、舟運の物資集散地であった高砂と流域各地を結ぶ路線として開通。 鉄道事業が播丹鉄道に譲渡されるも1943年の国有化により高砂線に改称。 従来の停留場が駅に変更。 1970年、無人化。 本線から西側へ向かい国鉄高砂工場方面へ続く構内側線が分岐。 その工場線から東播磨港高砂地区に面するキッコーマン高砂工場やタクマ播磨工場、黒崎播磨高砂不定形工場、三菱重工業高砂製作所、神戸製鋼所高砂製作所へ続く専用線がそれぞれ分岐。
国鉄高砂線 高砂駅跡地
本線と工場線の分岐点近くから東側へ分岐し、三菱製紙高砂工場へ至る専用線も。 1984年、1面1線の単式ホームを有していた地上駅であったが、高砂線の廃止に伴って廃駅。
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1823年、土蔵造平屋として建築。 登録有形文化財に登録。 堀川の西岸に位置し、内部は一室で荷摺木を並べる。 江戸時代、高砂は漁業や海運業の拠点として発展し、港町高砂の物流の中心地となった。 海陸産物を納めた蔵として利用された。
江戸時代、高砂は漁業や海運業の拠点として発展し、港町高砂の物流の中心地となった。 花井家は肥料問屋を営み、明治時代に住宅家屋として建設。 南正面に出格子、上階は漆喰で塗り込め、格子窓を並べる。 登録有形文化財に登録。 2010年、高砂地区まちづくり協議会が運営・活用する県民交流広場の拠点施設となった。
1900年頃、木造2階として建築。 登録有形文化財に登録。
百間蔵は江戸時代、姫路藩主の池田輝政が京の伏見にあったものを移築。 江戸時代、高砂は漁業や海運業の拠点として発展し、港町高砂の物流の中心地となった。 加古川を下る物資は全て高砂に運び込まれ、蔵は姫路藩の倉庫としてだけでなく、諸藩や旗本の年貢米の集積地として繁栄。
百間蔵跡と津留穀留卸番所跡
姫路藩では年貢納入以前の米の売買、流通を一切禁止する津留穀留を行っていたため、加古川上流から下って高砂に来る川舟を対象として、米の移出入を監視する津留穀留卸番所が設置。
境内には石造地蔵菩薩坐像が建立。
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1976年、全国的にも珍しいオープンモール形式のショッピングセンターとして開業。 高砂市は、山陽電鉄高砂駅周辺の「高砂地区再開発事業計画」を構想。 三菱倉庫が構想を引き継ぎ、三菱製紙高砂工場グラウンド跡地などを取得して専門店55店舗、三菱倉庫グループのサンモールスイミングクラブ、分譲集合住宅も併設。
兵庫県の高砂市やその周辺の観光案内、情報発信などを行っている観光案内所。 帆布発祥の祖ともされる工楽松右衛門が発明した松右衛門帆を再現した鞄や高砂市のマスコットキャラクター「ぼっくりん」のグッズ等を販売。 「ちちり」とは、松かさの訓読した読み方であるとか。
6本の鉄脚に支えられた旧朝日町浄水場配水塔。 高さ26m。 1901年、三菱製紙が工場を建設。 当時、高砂町は工業地として発展。 1921年、日本初となる工業用水の工事に着手。 1923年、上水道としての利用を目的に浄水場の整備を進め、配水塔が完成。
海浜公園。 向島公園と隣接。 日本の白砂青松100選に選定された白砂青松と人工島が特長。 園内では海水浴をはじめ、釣りなどを楽しむことができる。