桶狭間の戦い激戦地
愛知桶狭間の戦い激戦地
まいどまいど! 皆さんの歴史の教科書などで一度は目にしたことがあるであろう「桶狭間の戦い」という言葉。 「桶狭間の戦い」とは今川義元と織田信長により勃発した合戦の一つとして知られ、今も語り継がれている。 場所は愛知県豊明市にあり、東海旅客鉄道東海道本線の南大高駅、共和駅または名古屋鉄道名古屋本線の有松駅、中京競馬場駅が便利。 今回、名古屋鉄道の中京競馬場駅で電車を降りて、駅を出ると目の前に桶狭間の戦いに関する案内表示板があり、その案内に沿って歩いていくと桶狭間古戦場伝説地という場所が見えてくる。 閑静な住宅街に囲まれた場所に位置し、激戦地は今、公園となっている。。 かつてはこの付近に今川義元の本陣跡があったといい、訪れてみることに。 また周辺には今川義元や織田信長ゆかりの地が多数あり、古跡ファン、歴史ファン必見のスポットです。
1560年、尾張国知多郡桶狭間で勃発した織田信長軍と今川義元軍による合戦。 織田信長は約4000人を味方に25000人率いる今川義元に戦いを挑んだが、天候が急変して夕立に。 狼狽する義元勢をめがけ、太子ヶ根に待機していた信長は一挙に本陣めがけて切り込んだ。 信長の家臣・服部小平太が、槍で義元を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて首を取って勝利した。 今川家は没落、織田信長は尾張を完全統一、畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。 松平元康(徳川家康)は三河で独立を回復し、信長と同盟を締結。
桶狭弔古碑
合戦「桶狭間の戦い」で駿河の今川義元は西へと軍を進め、桶狭間山の北に陣を敷き、尾張に侵入、鷲津・丸根の砦を攻撃。 「明日、朝食する頃には清洲城は取れているだろう」と豪語。 家臣たちは勝利を祝賀し、陣中で祝い酒も。 黒雲が沸き起こり暴風雨となった。 織田軍が攻め込む音と鬨の声が聞こえ、本陣は大混乱。 津島神社の神官・氷室豊永は、戦死した今川家の重臣・松井宗信の子孫で、氷室家に養子に入った。
1560年、尾張国知多郡桶狭間で勃発した織田信長軍と今川義元軍による合戦「桶狭間の戦い」。 今川義元をはじめ、今川軍7人の戦死場所を示すとも。 今川義元は当地で織田軍に討ち取られたという。 今川軍の重臣・松井宗信の子孫が建立したと伝わる「桶狭弔古碑」には、今川義元が清州城を落とせると豪語したこと、信長の奇襲から義元の戦死までの顛末など、戦いの様子が語られている。 七石表は、古戦場伝説地の中で最古とされ、1771年に尾張藩士の人見弥衛門・赤林孫七郎により建立。
800年代、真言宗開祖弘法大師の高野山(和歌山県)において「高貴徳王菩薩」を本尊とした寺院として建立。 1894年、行政による寺院の整理が進む中、桶狭間合戦の戦没者の供養とこの地での布教のため、高野山より移転。 敷地内には、今川義元の仏式墓所や本陣跡の石碑、今川軍の重臣・松井宗信の墓碑が現存。 毎年7月、「土用の丑の日」には、高徳院きゅうり祭りが開催され、身代わりのきゅうりに名前と住所を書いて奉納、1年間の「無病息災」「家内安全」を願う。
1560年、尾張国知多郡桶狭間で勃発した織田信長軍と今川義元軍による合戦「桶狭間の戦い」。 1975、義元公直系19代・芹沢二郎が建立。