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黒船がやってくる!?浦賀の日常

黒船がやってくる!?浦賀の日常

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    観光

黒船がやってくる!?浦賀の日常

まいどまいど! 黒船といえば、学校の歴史の教科書でおなじみの代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件のことで、1853年のできごと。 艦隊は江戸湾入り口の浦賀沖に停泊していたといい、一部は測量と称して江戸湾に侵入。 このできごとに”えらい(=とても)”驚いた江戸幕府も結果的には神奈川県横須賀市にある久里浜っちゅう場所への上陸を認めました。 そして、アメリカ合衆国大統領国書が江戸幕府へと渡され、日米和親条約の締結に至りました。 日本ではこの事件以後から明治維新・大政奉還までを「幕末」としており、歴史を大きく動かした場所の一つとして、今一度、注目すべき場所としておすすめの場所でんねん。 当地では吉田松陰や佐久間象山も訪れたといい、当時のことの大きさを改めて実感できるわけでんねん。 その他、勝海舟らもゆかりがあるといい、当時の時代を駆け抜けた著名人の足跡をたどってみまへんか。

  • 京浜急行電鉄本線の停車駅の一つ。 1930年、開業。 1957年、駅舎を現在地に移転。 2008年、接近メロディ「ゴジラのテーマ」を導入。 ゴジラが当駅付近の観音崎にある「たたら浜」に上陸したという設定に因み、映画「ゴジラ」のメインテーマ(伊福部昭作曲)をアレンジ。 また駅前には浦賀奉行所開設300周年と描かれた顔出しパネルが設置され、記念撮影を楽しむことができる。

  • 横須賀市浦賀地区にあった浦賀船渠は造船所として知られている。 通称、浦賀ドック。 1900年、操業を開始し、その工業用水の確保を目的に水のトンネルが整備された。 現在の二葉2丁目に位置していた溜池から工業用水が運び込まれ、当地は導水坑の出口にあたるとか。 工場では独のタービンが開発され、大量の水を必要とした。 工場では日本海軍の駆逐艦建造で知られ、太平洋戦争後も艦艇の建造が続けられた。 2003年、閉鎖された。

  • 店名のエルマールとはスペイン語で「海」という意味。 店内は船をイメージしたという。 付近に叶神社が鎮座しており、その神社の名称に因み、メニューは願いが叶う縁むすび、縁結びお抹茶セット付、スキレットカレーなど。 店先には江戸時代に江戸幕府浦賀奉行所与力として活躍した中島三郎助の肖像画などが描かれている。

  • 浦賀港の西渡船場までを結ぶ渡し船の東渡船場。 愛称、ポンポン船。 時刻表は無く、渡船が対岸に停泊しているときは、呼び出しボタンを押すと来てくれるという。 船旅は対岸の西渡船場まで約3分。 料金は大人200円。 船上からは浦賀造船所跡地に建つクレーンやドックを眺めることができる。 1725年、船1艘、船頭2名で開始。 1878年、東西浦賀の17町内会の共同体が維持管理を開始。 料金は、一人3厘(夜間料金は倍額)。 1917年、渡船としての最盛期を迎え、1日の平均乗船客が1000人以上。

    • 別ルートも

      別ルートも

      現在地以外でも別ルートの営業が行われていたとか。

  • 1811年、浦賀には商人や文化人、各藩の武士等が訪れた。 当時、宿場のない浦賀では商人や文化人は親類縁者を頼った。 各藩の武士も浦賀の商人と取引のあるところで宿泊。 原則、船乗り以外の旅人の宿泊は禁止、一般で通行手形等を所持の場合、村名主が宿場を紹介し、宿泊許可。 東浦賀では徳田屋を含む3軒、西浦賀では吉川屋等の旅籠が許可、徳田屋には多くの武士や文化人が宿泊。 特に「松下村塾」の塾頭・吉田松陰はマシュー・ペリー艦隊の対応策について徳田屋の主人からの情報を下に、師の佐久間象山らと協議。 黒船来航では日本側の防備の実情を知って残念に思っていた。

    • 黒船来航

      黒船来航

      佐久間象山やその門下生らと、今後の日本のとるべき方向などを協議。 1860年、桜田門外の事件で井伊大老を殺害した水戸藩士の残党が立ち回る恐れがあり、旅籠に奉行所の役人が訪れ、宿泊客の厳重な取り調べを行った。 徳田屋に宿泊した客を取り調べせず奉行所から厳重注意。 徳田屋では番所の「船改め」を受けず、房総半島へ直行できる船便を持っていた。 1923年、徳田屋は関東大震災の頃に廃業。

  • 開山は唱阿上人。 本尊は阿弥陀如来。 但し、阿弥陀仏の胎内にある、もう一体の阿弥陀仏が本当の本尊とも。 善光寺式阿弥陀仏は長野県善光寺の本尊を模して造られたもので、室町時代初期の作風。 境内には州崎町の町内稲荷である三浦稲荷の鳥居があり、南無阿弥陀仏と刻まれた石塔が建立。 これは浦賀の遊廓(当時は洗濯屋という)の主人で、家屋敷や財産を投げ出し、抱えていた遊女を解放、自らは出家する江戸屋半五郎。 1809年、雷電為右衛門が訪れ、相撲の興行が行われた。

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  • 浦賀奉行所与力・中島三郎助親子が眠る。 中島三郎助は江戸幕府浦賀奉行所与力、蝦夷共和国箱館奉行並。 砲術、田付流、集最流、荻野流の免許、高島流の皆伝を受けた、俳諧や和歌を詠む。 1853年、米国マシュー・ペリー艦隊が浦賀沖に来航(黒船来航)した際、副奉行と称して通詞の堀達之助を連れて旗艦「サスケハナ」に乗船。 浦賀奉行・戸田氏栄ら重役に代わり、香山栄左衛門と共にアメリカ側使者の応対を務めた。 船体構造・搭載砲(ペクサン砲およびダールグレン砲)・蒸気機関を調査、密偵とも。 ペリー艦隊の帰国後、老中・阿部正弘に提出した意見書で軍艦の建造と蒸気船を含む艦隊の設置を主張。

    • 日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」

      日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」

      1854年、日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の製造掛の中心として活躍。 江戸幕府の長崎海軍伝習所に入所、造船学・機関学・航海術を修めた。 築地軍艦操練所教授方出役に。 浦賀の長川を塞き止めて日本初の乾ドックを建設。 軍艦操練所教授方頭取手伝出役、富士見宝蔵番格軍艦頭取出役に。 与力の職を長男・中島恒太郎に譲る。

    • その後

      その後

      1868年、戊辰戦争が勃発、海軍副総裁・榎本武揚らと共に江戸・品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に至った。 箱館政権(蝦夷共和国)下では箱館奉行並、砲兵頭並を務めた。

  • 洲崎とは町名の一つで浦賀湾に張り出した洲の先頭部と言う地形に由来。 山の手には江戸時代、三浦按針(ウィリアム・アダムス)の屋敷があり、按針が勧請した社があった。 1556年、三浦半島が房州の里見軍に攻撃され、北条氏康が浦賀城を築城。 この城は、後北条氏時代の三浦半島水軍の根城であった。

  • 当地は東浦賀に位置。 通称、東叶神社。 浦賀港を挟んだ対岸には叶神社(通称、西叶神社)が鎮座。 1644年、西浦賀の叶神社を勧請して東叶神社として創建。 1868年まで耀真山永神寺(真言宗醍醐派仏教寺院を別当寺)とした。 厳島神社は身代わり弁天とも。 明神山には奥の院、東照宮、神明社、稲荷社があり、県指定天然記念物「叶神社の社叢林」も。 1500年代、安房里見氏からの攻撃に備え、北条氏康が神奈川県三浦市にあった三崎城の支城として築城。 里見義弘との房相一和後に廃城または豊臣秀吉の小田原征伐後に三崎城同様廃城となったとも。

    • 浦賀城も

      浦賀城も

      三崎城は相模三浦氏の本拠地で後に後北条氏が領する。 三崎城付近にあり三浦氏の居城で新井城があった。 戦国時代、三浦義同が伊勢盛時(北条早雲)に城を囲まれ、篭城戦を繰り広げたが、相模三浦氏は滅亡(新井城の戦い)。

  • 1598年、徳川家康はスペイン領メキシコから新製錬技術を導入する為、スペイン領マニラからメキシコのアカプリコ港へ向かうスペイン商船「ガレオン船」を浦賀湊に寄港。 英人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)を顧問とし、江戸邸のほか三浦郡逸見村の采地と浦賀邸を与えた。 三浦按針はマニラにも渡海、浦賀貿易再開の為に尽力。 江戸・浦賀・静岡・伏見・大坂にはフランシスコ会修道院が創設、浦賀洲崎にはスペイン人を保護する高札が建立。 浦賀貿易を管轄したのは船奉行向井将監忠勝。

    • 太平洋航路横断

      太平洋航路横断

      浦賀湊には前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビペロ・イ・アベルサやメキシコ国王の使節セバスチャン・ビスカイノが訪れ、三浦按針建造のブエナ・ベントゥーラ号はロドリゴの帰国の為に提供され浦賀を出帆。 幕府船として初めて太平洋航路横断を果たした。 伊達政宗の遣欧船サン・ファン・バウティスタ号もスペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリナを乗せて入港。

    • 長崎とも

      長崎とも

      三浦按針の母国との通商成立、全国にバテレン追放令が公布された。 1616年、貿易港は長崎・平戸に限定され、三浦按針が平戸への移住。 浦賀は長崎と並ぶ東国唯一の国際貿易港として重要な役割を果した。

  • 勝海舟は江戸時代から明治時代にかけて活躍した武士(幕臣)、政治家。 山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。 海舟は号で、佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったもの。 通称、麟太郎。 諱は義邦、明治維新後、改名して安芳。 武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝安房に。 新潟出身で江戸に出て米山検校となる。 島田虎之助に入門し、剣術・禅を学んで直心影流剣術の免許皆伝となる。 家督を継ぎ、永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開塾。 安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。 1860年、咸臨丸で渡米、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。

    • 明治維新と断食

      明治維新と断食

      戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。 明治維新後、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任、伯爵。 福沢諭吉らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。 足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(東洋大学)や専修学校(専修大学)の繁栄にも尽力。 勝海舟は咸臨丸出航前、当地で断食修行した。

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