旧三日市宿場町を歩きながら烏帽子形山を目指す旅
大阪旧三日市宿場町を歩きながら烏帽子形山を目指す旅
まいど! 江戸時代、京都と高野山を結ぶ街道として栄えた高野街道は、大阪府河内長野市を経由する。 旅人は1日に約8里(約32km)の道程を歩いていたという。 大阪を始点とした場合、高野山までは16里。 朝、大阪を出発すると夕方には8里目にあたるこの付近に到着することが多かった。 次第に三日市町周辺は宿場町として栄えたとか。 三日市町周辺は、旧宿場町らしい趣ある古い町屋とが立ち並び、室町時代から続く酒蔵と重要文化財に指定された建屋があるなど、かつての時代を偲ばせる。 山の様子が烏帽子に似ていることから名付けられた烏帽子形山には公園が整備され、市民の憩いの場となっている。 また、山の中腹には、烏帽子形神社が鎮座しているだけでなく、烏帽形古墳や烏帽子形城址をはじめとする伝説が残っているなど、歴史的にも深い。 今回のおでかけプランは、南海電車河内長野駅から三日市町駅までの一駅を結ぶ高野街道の一部を歩く旅。 でも、このたった一駅の街歩きにもいろんな”出会い”が待っています。 それは、街並みであったり、人の温かさであったり、様々。 さあ、ぜひ、あなただけの旅を楽しんでいきまひょ!
河内長野市は、大阪府南河内地域に位置し、奥河内とも呼ばれている。 付近には、滝畑四十八滝、岩湧山などの他、観心寺、金剛寺などの神社・仏閣がある。 古くから、高野山まで続く高野街道の一部として利用され、街道沿いを中心に、史跡や建造物が数多く残っている。 南北朝時代に活躍した楠木氏ゆかりの地として知られ、歴史ファンが訪れることも。 全国の市町村において文化財を有する順位は、12位。 2012年、週刊東洋経済が発表した「日本のいい街ランキング」では年々、順位を上げて大阪府内33市中8位、「安全・安心な街ランキング」では大阪府内第1位を記録した。 河内長野市は、全国の爪楊枝の生産の大半を担う。
「七つ辻」と呼ばれる交差点には、8本の道路が交差する。 東高野街道、西高野街道などが合流し、長野商店街の出入り口付近から三日市町駅にかけては街道「高野街道」として知られている。 付近は、古くから、宿場町として発展し、現在も当時の面影や街並みが残っている。 商店街は、河内長野駅前に位置し、南北方向と東西方向に延びている。 駅前には、バスターミナル、大型商業施設「ノバティながの」がある。
木屋堂の碑
鎌倉時代、高野山への参詣には京都・鳥羽から舟で淀川を下り、四天王寺で入堂・宿泊。 堺から西高野街道に入って河内長野市・三日市を経て「紀伊御坂」(紀見峠)を越え、九度山慈尊院の高野政所に宿泊。 1000人を超える行幸列には、宿泊施設「河内国木屋堂」が活躍し、倒幕勢力の結集拠点としても知られる。 本来は、上流の天見・岩瀬の杣や天野杣で伐採された材木を管理する木材の集積場であった。
古くから発展してきた高野街道沿いに建設された邸宅は、江戸時代から続く豪商の「表屋造」「袖蔵」である。 1732年、伊勢神戸藩の郷目付けと大庄屋を勤め、鋳物師職を引き継ぎ、現在に至る。 クスノキは、市の天然記念物に指定され、樹齢は500年以上。 双子葉植物・クスノキ科の常緑高木。 本州の西日本地域など、暖地に広く分布する。
かつては、「木屋堂の宮」「牛頭天王宮」などと呼ばれていた。 祭神は、素盞嗚大神(牛頭天王)、天児屋根命、菅原道真。 創建時期など詳細は不明となっている。 1543年、本殿が建て替えられた。 本殿は国の重要文化財に指定されている。 境内のカヤの古木は大阪府下最大で府の天然記念物として知られている。
高野街道の一部。 高野街道とは、京都・大阪を起点に高野山までを結ぶ街道の一つに数えられ、河内長野市を経由する。 河内長野市では4つの高野街道が合流し、古くから宿場町として栄えた。 高野街道の一部にあたる酒蔵通りには、天野酒造蔵をはじめとする酒蔵が並ぶ。
室町時代、「天野酒」は、僧坊酒として親しまれていた。 大阪城を築城した豊臣秀吉も愛飲していたとされ、朱印状が現存する。 朱印状は、河内長野市にある金剛寺宝物館で保存されている。 1719年、創業した西條合資会社は現在も天野酒を醸造する。 この他、酒米粉や酒粕を使用したデザートは人気で、焼きねぎ味噌、天野酒バウムクーヘン、天野酒ゼリー、そうめん瓜の粕漬け、酒かすアイスクリームなどを販売する。
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隣接する西條合資会社旧店舗主屋・土蔵は江戸時代に完成し、現在は、国の登録有形文化財に指定されている。
石川と天見川の合流地点にあたる当地には600年代に築造されたとされる古墳や1200年代に築造されたとされる墓が発掘された。 古墳からは横穴式石室、墓は、屋敷墓とされている。
烏帽子形山は標高182m。 公園内には、遊歩道、プール、展望台などが整備。 500年代に築造された烏帽子形遺跡は、自然石で構成された横穴式石室がある。 烏帽子形城は烏帽子形山にあった城址。 別名、押子形城。 1332年、烏帽子形城は、楠木正成が築城した楠木七城の一つとして築城。 上赤坂城の支城の山城としての役割を果たしていた。 南北朝時代、南朝の楠木氏と北朝の畠山氏による主戦場となったとされる。 1584年、岸和田城主の中村一氏の支城。 紀州攻めの拠点として改築なども行われた。 1587年、キリシタン禁制により、当域を追放され聖堂も破壊された。 1617年、廃城処分となった。
祭神は、素盞鳴命、足仲彦命、神功皇后、応神天皇。 烏帽子形城は、楠木正成が築城した楠木七城の一つとして築城。 上赤坂城の支城の山城としての役割を果たしていた。 楠小二郎は、城の鎮護として創建。 河内源氏の末裔・石川八郎左衛門尉が入母屋造りの社殿を建立。 1617年、楠木一族の後裔・甲斐荘喜右衛門正保が改修。 楠公武威の松は、楠木正成が湊川の戦いに出陣の折、武運を祈願して植樹した。 1934年、室戸台風により被害を受け、現在は、輪切りして保存されている。
1300年代、建立。 本尊は、厨子入り地蔵菩薩半跏像。 南北朝時代、室町幕府の三管領家の一人、畠山義深氏が越前の守護職、河内国の守護職に就いた。 七宝庵を設け、隠居した。
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当時、長野村に住んでいた田中佐太郎(本名、吉年佐太郎)は、伊勢神戸藩長野村代官吉年作兵衛の長男であった。 1811年、鋳物師として田中佐太郎を名乗り、河内国で真継家が認めた鋳物師の1人で鋳物師田中喜久治から鋳物師職を引き継ぐ。 当地には、吹場(仕事場)があり、梵鐘、農具や釜、鍋などを鋳造。 1872年、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である学制が発布。 これまで、教育は、私塾または寺子屋が基本で、習字・読書・算術が主であった。 寺子屋の先生は、中・上層農民、医者、神官、僧侶らが主であったが、畠山比左は、裁縫塾を開いていた。
1952年、三日市交番として建築。 全国的にも珍しい木造駐在所として、河内長野市の指定文化財に指定。 現在、旧三日市交番として、歴史・文化の情報発信の拠点となっている。
通称、「やくしさん」と呼ばれている。 本尊は、薬師如来坐像。 創建時期など詳細は不明となっている。 平安時代、長野村に住んでいた諸越長者は、弘法大師から薬師如来を与えられ大切に保管していた。 長者の没後、妻が郷里の三日市に戻り、お堂を建てたのが月輪寺の起こりとか。 本尊は、鎌倉時代に製作したとされ、府指定文化財に指定されている。
天誅組とは、幕末、公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。 大和国で挙兵するが、幕府軍の追討を受けて壊滅。 江戸時代、三日市町周辺は宿場町として栄えた。 油屋の本業は菜種油の製造と販売。 本陣格(公家、大名)の旅籠(旅館)を経営。 明治時代、錦渓温泉の旅館として営業していたが、公共交通機関の発達により廃業。 1863年、油屋の主人・庄兵衛が、天誅組の吉年米蔵、水郡善之祐と親交が深かった。 ある日、天誅組の一団が宿泊に訪れ、油屋で一泊した後、観心寺、後村上天皇陵、楠木正成公の首塚に参詣して尊皇攘夷の成功を祈願し五條へ向かったとか。
八木家住宅は、河内長野市内を通る高野街道の宿場町として栄えた旧三日市宿に位置する。 高野街道とは、京都・大阪を起点に高野山までを結ぶ街道の一つに数えられる。 1700年代、主屋は木造平屋建てとして建築され、木綿問屋、酒屋を営んでいた。 屋号は、「東家屋」。 国の有形文化財に登録された。
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三日市宿は江戸時代、河内長野市内を通る高野街道の宿場町として栄えた。 高野街道とは、京都・大阪を起点に高野山までを結ぶ街道の一つに数えられる。 816年、「お大師さま」との呼び名で親しまれている弘法大師(僧の空海)。 真言密教の修行道場として開いた高野山は、高野山真言宗の総本山となった。 以来、皇族・貴族からの信仰を集め、古くから多くの参詣客でにぎわっている。 江戸時代、高野街道が整備され、徳川幕府は大坂と高野山の中間地点に位置する場所に三日市宿を設置した。 1770年、宿場町としてにぎわっていた当時に常夜燈を建立。 以後、三日市宿のシンボルとして親しまれている。
高野街道とは、京都・大阪を起点に高野山までを結ぶ街道の一つに数えられ、河内長野市を経由する。 816年、「お大師さま」との呼び名で親しまれている弘法大師(僧の空海)。 真言密教の修行道場として開いた高野山は、高野山真言宗の総本山となった。 以後、大和、紀伊、和泉の三国に接している河内長野市では、東高野街道、西高野街道など4つの高野街道が合流する交通の要衝として、古くから栄えた。 高野山へ向かう参詣客でにぎわい、街道筋には常夜灯や道標が建立。 新高野橋の北側に建立された道標には、「西是これヨリ高野山女人堂にょにんどう江へ八里」と彫られている。
高野山女人堂へ八里の里程石
この里程石は、西高野街道と竹内街道の交差する十三里の里程石(大阪府堺市榎木町)を起点に、紀伊神谷(和歌山県高野町)まで一里ごとに建立。 1857年、里程石は、茱萸木村(大阪府大阪狭山市)の「小左衛門」と「五兵衛」が発願し建立。
河内長野市は、大阪府南河内地域に位置し、奥河内とも呼ばれている。 付近には、滝畑四十八滝、岩湧山などの他、観心寺、金剛寺などの神社・仏閣がある。 古くから、高野山まで続く高野街道の一部として利用され、街道沿いを中心に、史跡や建造物が数多く残っている。 南北朝時代に活躍した楠木氏ゆかりの地として知られ、歴史ファンが訪れることも。 全国の市町村において文化財を有する順位は、12位。 2012年、週刊東洋経済が発表した「日本のいい街ランキング」では年々、順位を上げて大阪府内33市中8位、「安全・安心な街ランキング」では大阪府内第1位を記録した。 河内長野市は、全国の爪楊枝の生産の大半を担っている。
ここでは、竪穴式住居跡、溝、土抗、柵跡などが発掘されている。 溝は、集落を囲むように整備されているため、境界としての役割を担っていたとされる。 弥生時代の遺跡は、溝から発展した環濠集落が整備されたとされる。
大阪府河内長野市にある寺院。 本尊は、観世音菩薩。 767年、行基により創建。 平安時代、木造阿弥陀如来坐像を築造。 国の重要文化財に指定されている。
羅漢像
創建当時、池にハスの一種、斑蓮(まだらはす)を植えたとされ、全国にも珍しい種類のものである。 また、池の周りには羅漢像が建立。
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古稱陀洛山神宮寺または大乗院と称した。 上宮神を鎮守として建立。 祭神は、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇。 明治時代、神仏分離令により、赤坂上之山神社となった。 応神天皇の遺髪が埋められているという伝説がある。