
囲碁「本因坊」発祥地でマンガを楽しむ
京都囲碁「本因坊」発祥地でマンガを楽しむ
まいどまいど! 京都の中心部にあたる中京区には、日本で初めてとなる漫画専門の漫画ミュージアムが開設され、話題を集めてはりまんな。 漫画ミュージアムはもともと小学校であったといい、当時の面影を今に伝えてはりまんねん。 ほんでまた、明治維新の時代を駆け抜けた木戸孝允(桂小五郎)ゆかりの地として知られ、周辺には当時の面影を今に伝えている旧邸もあり、明治の天皇も訪れはったとか。 その他、囲碁「本因坊」発祥の地としても知られ、石碑が建立。 また、博物館も開設され、囲碁のファンが訪れる人気観光地の一つとなってまんねん。 ほんでさらに、化学の技術を日本に取り込もうと学校「舎密局」を開設して海外・オランダから教師を招き、日本国内でぎょうさんの技術者を輩出したとか。 その他、大阪舎密局と並ぶ大阪大学・京都大学の源流とも。 かつては公家や明治維新の時代を駆け抜けた武士らが行き交った中京のまち。 最近ではお金が貯まる!?と密かな人気を集めているお金にまつわる神社も。 ゆっくりと散策して、京都らしさを見つけてみまへんか。
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2006年、開館。 国内外の漫画に関する貴重な資料を収集・展示する国内初の総合的な漫画ミュージアムの博物館。 当施設は、京都精華大学マンガ学部と京都市が主体となって設立。 近世思想史や美術史などを専攻する研究員4人が所属、まんが文化の研究を行い、オーストラリアのモナシュ大学日本研究センターやドイツのライプツィヒ大学も協力。 建物は、旧龍池小学校で国の登録有形文化財に登録。 明治時代の雑誌や戦後の貸本などの貴重な歴史資料、現代の人気作品、世界各国の名作などを所蔵。
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屋外でも
施設内では、一般公開のギャラリーゾーン、研究ゾーン、資料収蔵ゾーン、地域利便施設によって構成。 「マンガ本の壁」は、総延長約200mの書架に5万冊が並ぶ。 また、屋外の芝生にマンガを持ち出して読むことができる。
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祭神は金山毘古命、天照大御神、月読命。 金色の鳥居が特徴。 ここでは金属にまつわる神社として信仰を集め、古くから設計、造船など、建築に関わる金型を奉納。 最近では金銭にまつわる神社として再注目され、資産運用や証券取引等の成功祈願、競馬、競輪などでの勝利、宝くじの当選を願うイチョウ型の絵馬が奉納。 当初、個人の屋敷内に金山毘古命を祭神とする邸内社として建立。 1883年、周辺には鋳物職人の釜師が集まる「釜座通り」、徳川家康により設けられた「金座」と「銀座」、江戸幕府の金貨鋳造を担い、各地の金銀細工業者が住んでいた「両替町通り」があったため、参拝者は絶えなかったともいわれ、現在地に移転。
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江戸時代に活躍した大名で越前鯖江藩第7代藩主、老中首座。 1804年、江戸・鯖江藩邸で生まれ。 鯖江藩主となり、11代将軍・徳川家斉の側近として奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代などを歴任。 南紀派の大老井伊直弼の下で再び老中となり、財政を担当する勝手御入用掛と外交を担当する外国御用取扱を兼務。 朝廷から日米修好通商条約調印の勅許を得、京都所司代酒井忠義とともに一橋派や尊皇攘夷派を弾圧する安政の大獄に奔走。幕政の主導権を握ろうとして井伊直弼と対立し、「井伊の赤鬼」に対して「間部の青鬼」とも。
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平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した公家・歌人・正二位権中納言。 「小倉百人一首」の撰者で権中納言定家。 別名、京極殿、京極中納言。 勅撰集「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」、秀歌撰「定家八代抄」、歌論書「毎月抄」「近代秀歌」「詠歌大概」、家集「拾遺愚草(六家集の一つ)」、「源氏物語」「土佐日記」、日記「明月記」などと関わりを持つ。
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1589年、道路名称「寺町通」は豊臣秀吉の都市計画によって洛中の寺院が集められたことに由来。 寂光寺(久遠寺)もその一つで、町名「久遠院前町」にその名残も。 1600年頃、寂光寺の塔頭「本因坊」に住む僧侶の日海は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えた一方、囲碁の名人とも。 江戸時代、徳川家康の命によって寺を弟子に譲り、本因坊算砂と改名し、幕府の碁所を任された。 以降、名「本因坊」は世襲で受け継がれ、真の実力者が本因坊を名乗るべきとしてその名跡を日本棋院に譲り渡し、選手権制「本因坊戦」が誕生。 1708年、寂光寺は焼失。 現在、算砂愛用の盤石や算砂直筆の囲碁狂歌などの資料を保存・公開。
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明治時代、化学技術の研究・教育及び勧業を目的に設立された官営・公営機関。 舎密局の舎密とは、江戸時代に使用された蘭語のchemie(化学)に対する当て字。 1869年、後藤象二郎と小松帯刀の建言により、大阪の大手通旧京橋口御定番屋敷跡に大阪舎密局を設置。 旧開成所の教頭にはオランダ人化学教師ハラタマが就任。 学制公布に伴う改編により「第四大学区第一番中学」となり、理化学教育は廃止、京都大学となった。 1875年、跡地には大阪司薬所(大阪衛生試験所の前身)が設立。 1870年、京都舎密局を設置。 大阪舎密局でハラタマに学び、京都府に出仕した明石博高により設立。
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京都大学や島津製作所も
石鹸・氷砂糖・ガラス・漂泊粉等、工業製品の製造指導や薬物検定を行った。 1875年、文部省管轄の京都司薬場が併設、オランダ人教師ヘールツ(ゲールツ)による講義が開講。 化学校教師ワグネルは七宝焼等の製造改良を指導、後の島津製作所を設立した島津源蔵も。 1881年、京都府が舎密局を廃止。 1884年、高木文平に譲渡、京都倶楽部と改称。
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1833年、長門国萩城下呉服町(山口県萩市)生まれ。 日本の武士(長州藩士)、政治家で桂小五郎は幕末、尊王攘夷派(長州正義派)で明治維新の指導者として活躍し、西郷隆盛や大久保利通と並ぶ維新の三傑の一人。 明治政府高官のとき、近衛家邸を買い取り京都別邸とした。 晩年、明治天皇が見舞いに訪れた。
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木造二階建て家屋
1943年、没後、子・忠太郎が住んでいたが京都市に寄贈され、現在は市職員厚生施設となっている、 敷地南端部分には木造二階建て家屋が残る。
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会津藩士・山本覚馬は、京都守護職・藩主松平容保に従って上洛、京都に住んだ。 1868年、鳥羽・伏見の戦いにより入牢。 小松帯刀に見いだされ、京都府勧業掛として京都府権大参事・槇村正直による近代化策を推進。 覚馬の妹・八重も同居し、新島襄と結婚した。
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地方公共団体・京都市の執行機関としての事務を行う施設(役所)。 1927年、本庁舎が竣工。 政令指定都市の市役所では最古。 1889年、京都市を設置。 1893年、京都府庁内に市事務掛を設置。 1898年、京都市役所が開庁。 地上7階、地下2階建て。 現在の本庁舎は3代目にあたる。