
豊橋公園と吉田城
愛知豊橋公園と吉田城
まいどまいど! 出世城として名高い吉田城とその周辺を観光しまひょ! 吉田城とは愛知県豊橋市にあり、現在は豊橋公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれてまんねん。 また、公園内には美術館や運動広場もあり、スポーツを楽しむ人の姿も。 かつては大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が当地で編成され、今も軍の関連施設の名残が各所に。 さて、そんな豊橋公園周辺には吉田宿と呼ばれる宿場町があり、江戸時代には本陣も置かれ、ぎょうさんの大名が宿泊に訪れたとか。 今では名残もおまへんけど、かつての時代を偲ばせてみるのもおすすめ。 その他、豊橋市役所の最上階にある展望フロアからは市街地を一望することができると評判で、歴史や模型も設置され、豊橋のことを詳しく知ることができまっせ。 また、昔ながらの雰囲気を今に伝える白山比咩神社 吉田天満宮にはかつて吉田新銭座が設置され、現代でいう硬貨が製造されていたとか。 その他、吉田神社は手筒花火発祥の地として知られ、境内には石碑が建立。 また、豊橋祇園祭も開催されまんねん。 歴史的にも文化的にも面白い愛知県豊橋市。 過去があって今があるその歴史に触れてみまひょ。
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吉田城址公園。 園内には、吉田城址、豊橋市美術博物館、豊城神社の他、豊橋球場、陸上競技場、テニスコートなどがあり、陸上競技等の大会が開催されることも。 また、豊橋まつり、炎の祭典、納涼祭等、各種の市内イベントの会場にもなっている。
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1505年、今川氏親の命により、宝飯郡の長山一色城主・牧野古白が入道ヶ淵に臨む岡に築城。 西三河・安祥城の松平長親による東三河進出、渥美郡全域で影響力のあった戸田宗光に対抗するため。 1506年、松平氏と今川氏の戦い後、牧野古白・野瀬丹波が討死。 二連木城や田原城に拠点を持つ戸田氏と、牧野氏が争奪戦を繰り返すため城主が交代。 1529年、西三河から松平清康(長親の孫)が進出、吉田城を攻略、三河支配権を確立。 1535年、清康が横死、松平氏の直臣の城番が撤退。 非直臣の城番の一人牧野成敏が城主に、牧野氏を追った戸田宣成が城主に。
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最重要拠点に
1546年、牛窪城主(長山一色城主)の牧野保成により今川氏が戸田宣成を攻めて吉田城を陥落。 今川氏による東三河の最重要戦略拠点に。 今川義元は駿河から伊藤左近・小原鎮実を派遣。 1560年、今川義元が桶狭間の戦いに敗れ、支配力が低下。 1565年、今川氏を離反した松平家康によって攻略され、小原鎮実は退避、今川氏は三河支配権を喪失。
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徳川家康も
家康は重臣の酒井忠次を城代に任命。 南方の田原城の城代に本多広孝を配置。 吉田城を中心に戸田氏や牧野氏、西郷氏等の東三河4郡の諸豪族を統率。 1568年、遠江侵攻で掛川城を攻囲するまで東三河衆は酒井忠次が指揮。 北方では設楽郡の長篠城・野田城が、東方では遠州の浜松城・二俣城・高天神城等が牙城に。
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出世の城!?
1590年、豊臣秀吉により家康が関東に移封、池田輝政が東三河4郡の城主となった。 1601年、輝政は播州・姫路に移封。 幕藩体制の下で吉田城に三河吉田藩の藩庁を設置。 江戸幕府の老中・大坂城代・京都所司代格等、有能な譜代大名が城主に選ばれ出世城とも。 1869年、松平信古(後の子爵大河内信古)が版籍奉還。 1954年、隅櫓(鉄櫓)が模擬再建。
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1871年、明治政府下の豊橋城(豊橋藩)となり、兵部省の管轄。 城趾内に名古屋鎮台の豊橋分営所が設置。 1875年、大日本帝国陸軍の連隊の一つ大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が設置。 1884年、名古屋で第1から第3大隊が設置、1886年に豊橋に移駐。 1888年、第3師団創設。 1894年の日清戦争、1904年の日露戦争に従軍。 1907年、第3師団から第15師団に所属変更も廃止、第3師団に復帰。 1928年、中国で日本人襲撃等の済南事件が勃発、天津に駐屯。 1933年、満州国の熱河作戦に参加。 1934年、満州駐剳、帰還。 1937年、上海上陸、南京攻略戦に参加。 1938年、日中戦争に従軍。
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第二次世界大戦にも
1944年、テニアン島進駐では沖大東島南方の海上でアメリカ海軍の潜水艦トラウトの魚雷攻撃により、輸送船崎戸丸が沈没。 サイパン島に上陸、再編成を行い、グアム島へ移駐。 1942年、第3師団から第29師団に所属変更、奉天省海城に駐屯。 アメリカ軍上陸開始(グアムの戦い)、連隊主力はマンガン山にあったが、各中隊は上陸地点の要所に配置されるも、夜間戦闘等で多くが戦死。
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別名、牛頭天王社、吉田天王社、天王社。 祭神は素戔嗚尊、持統天皇。 702年、頓宮が設営。 1124年、疫病流行を封じるため神主の横地氏は天台宗の感神院祇園社(八坂神社)より祇園精舎の守護神であり疫病除けの神徳を持つとされる牛頭天王を勧請。 1178年、源頼朝が伊豆に配流の途上、普門寺に逗留した折、鈴木十郎元利を名代として吉田神社に参拝。 1186年、頼朝は石田次郎為久に代参させた。 1507年、吉田城築城後、牧野古白が吉田神社を城の鎮守として社殿を再建。 1548年、今川義元が御輿を神社に寄進、神輿渡御が始まった。 12頭立ての競馬も行われた。 大河内松平家の紋の入った鞍と鐙が現存。
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石
近年の発掘調査により石が出現。
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石
参詣道の入り口の中央付近にあるので、足元に注意。
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愛知県豊橋市に鎮座する吉田神社内にある碑。 日本での花火の製造がはじまったのは1500年代で、1613年に徳川家康は江戸城内で花火を見物したとか。 徳川の砲術隊はこの技術を三河岡崎に持ち帰り、三河・遠州で、手筒花火が盛んになった。 手筒花火は約1mの竹筒に火薬を詰め、それを人が抱えながら行う。 手筒花火は吹き上げ式の花火で、豊橋市関屋町の吉田神社で毎年7月に行われる祭事「豊橋祇園祭」が有名。
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豊橋祇園祭
愛知県豊橋市に鎮座する吉田神社内にある碑。 豊橋祇園祭は吉田神社で毎年7月中旬に行われる祭事。 前々夜には手筒花火、前夜には打ち上げ花火、本祭には神輿渡御。 江戸時代、天王祭として行われた。 神輿渡御の行列は源頼朝をしのぶものとされ、鎌倉・平安時代の服装で練り歩く。 大筒花火は町内会で手作りされ、それを神輿のように担いで練り歩く。
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1906年、全国で62番目の市として誕生。 市役所の13階にはレストランやとよはし物語館、展望ロビーが設置。 展望ロビーからは豊橋公園や豊橋駅周辺など豊橋市街地を一望できる。 とよはし物語館では、豊橋市の歴史や豊橋市街地を走る市電の歴史の紹介や模型などが設置。
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1931年、公会堂として竣工。 名古屋電燈株式会社と豊橋電気株式会社の合併に際して公会堂建設資金の寄付。 設計は中村與資平。 鉄筋コンクリート造。 外観はロマネスク様式が基調、スペイン風の円形ドームは1910年頃にアメリカ・カリフォルニア州で流行したスペイン統治時代の建築様式スパニッシュ・コロニアル・リバイバルを模倣したもの。 国の登録有形文化財に登録。
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江戸時代、吉田宿場町として開設、東海道五十三次では江戸側から数えて34番目。 1601年、伝馬朱印状があり、東海道が設定された当初から宿場であった。 征夷大将軍の徳川将軍家の老中・大坂城代・京都所司代格の大名の吉田藩の所領で、吉田城城下町と湊町(吉田湊、船町)を合わせた宿場町であった。 1802年、表町12町と裏町12町の計24町で宿を構成、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠65軒であった。 本陣は吉田城大手門付近にあり、人馬継立の問屋場もあった。 曲がり角が多いことから、曲尺手町とも。
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吉田宿本陣跡
吉田城内に鎮座する牛頭天王祠(吉田神社)で開催される天王祭の前夜では放花炮「立物花火」が行われた。 飯盛女が多く、「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が」などの詩が残っているとか。 1868年、吉田三ヶ寺に数えられた悟真寺に三河国・遠江国・駿河国の元天領を統治するための三河裁判所が設置。
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特製ちくわや豆ちくわ、かまぼこ、いわし玉、イカそふとなど魚肉練り製品を製造販売する。 特に古くから愛知県豊橋市では「ちくわ」「かまぼこ」の名産地として知られ、お土産の定番ともなっている。 1827年、創業。 江戸時代、宿場町・吉田宿(豊橋)で魚問屋を営んでいた佐藤善作氏が、金刀比羅宮(香川)を訪れた際、そこで販売されていた「ちくわ」を目にし、豊橋で製造・販売したことに始まる。 ちなみにヤマサ蒲鉾(兵庫)、ヤマサ醤油(千葉)とは同名他社。
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江戸時代末期の文政年間に創業したという老舗。 店内はテーブル席、個室など。
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田楽
昔ながらの製法を守りつつ、菜飯と田楽を楽しめるお店。
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菜飯
昔ながらの製法を守りつつ、菜飯と田楽を楽しめるお店。
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通称、吉田天満宮。 祭神は、菅原道真。 1532年、菅原道真公の神像が鹿菅(下地・横須賀・下五井・清須町一帯)の海辺に漂い、里人が石塚(花田町)付近に小社を建てて祀り、岩崎玄朝が奉祀したことに始まる。 1631年、吉田城主の松平忠利が造営。 1674年、吉田城主の小笠原長矩は拝殿・楼門を建立。 この時、赤い色が特徴の馬で城下視察と共に参拝に訪れたことで、赤馬の天神、赤天神と呼ばれることも。 1840年、拝殿の格天井にある「月と雁」の絵は、花園町に住む鈴木三岳の弟子で、蛮社の獄で謹慎中の渡辺崋山によって描かれたものが奉納。
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近年
1770年、扁額はこの地に来遊した彦根藩の儒者の龍公美の筆であるとか。 1945年、戦災で焼失。 1949年、現在地に遷座、白山比咩神社相殿と合祀。
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白山比咩神社吉田天満宮内に建立された石碑。 江戸時代、大陸で製造された宋銭を使用していた。 三代将軍徳川家光は国産貨幣の使用を開始するため、当地の三河吉田藩を含む常陸水戸藩(茨城県水戸市)、陸奥仙台藩(宮城県仙台市)、信濃松本藩(長野県松本市)、豊後竹田藩(大分県竹田市)など8ヶ所に鋳造所を設置。 1636年、当地に銭座が設置され、全国統一通貨の銅貨「寛永通宝」の製造を開始し1640年に終了。 寛永通宝は1953年まで通用した。
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吉田駒曳銭(吉田牛曳銭)
家光により銭座を新銭座と命名、町名を新銭町としたが、1958年に広小路3丁目となった。 寛永通宝の製造終了後、吉田新銭座は絵銭「吉田駒曳銭(吉田牛曳銭)」の製造開始。 硬貨を紐に通して数える区切り銭して百の数取り銭とも言われた。 このため、百徳を得られる縁起銭として親しまれた。 現在、金山彦神を祀る新銭座金山神社が祀られ、造幣・鋳造の守護神、金運、商売繁盛、事業発展などのご神徳があるとか。
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