吉田松陰の墓参りは東京ですべし!
東京吉田松陰の墓参りは東京ですべし!
2015年の大河ドラマは吉田松陰が題材だそうです。吉田松陰といえば萩をイメージする人も多いと思います。実際に萩には松陰神社も墓地もあるのですからそれはそうでしょうし、何より松蔭の象徴ともいえる松下村塾がそのまま萩に残っているわけです。 しかし、実際に松蔭が眠ってているのは東京の世田谷だということはご存知でしょうか。松蔭は小伝馬町の刑場で29歳の若さで処刑されたあと門下の桂小五郎らの尽力で小塚原回向院下屋敷常行庵に埋葬されますが、4年後高杉晋作らの尽力で世田谷の毛利ゆかりの地に改葬されます。そこが現在の東京世田谷の松陰神社の地。 そういうわけで吉田松陰の墓参りは是非とも東京ですべきだということになるのです。 周辺には松蔭斬首のきっかけとなった安政の大獄の井伊直弼の墓もありますし、渋く美味しいグルメも多くありますので、昼を挟んで午後、もしくは昼過ぎから夕方にかけて出かけて散策してみて下さい。
吉田松陰を奉った神社、松陰神社は東京と萩の両方にあります。東京の松陰神社は松蔭の死後墓を毛利ゆかりの地に移して作ったことをきっかけに建てられたもので、墓地由来の神社です。 萩の神社は殉節から31年後の明治23年、松下村塾出身者などの手により松下村塾の改修が行われ、そのとき松陰の実家、杉家の手で松陰を祀る土蔵造りのほこらが建立されたのが神社のはじまりのようです。 実際にご遺体のある東京の松陰神社が大分先だったのですね。 いずれも学問の神様とされています。
吉田松陰の墓
吉田松陰は、安政の大獄に連座して江戸伝馬町の獄中で刑死しました。その4年後の門下生であった高杉晋作、伊藤博文らが世田谷若林の現松陰神社の地に改葬したそうです。一帯は江戸時代から長州毛利藩藩主の別邸のあったところだったそうです。
木戸孝允寄進の鳥居
松陰の墓の入口に建てられている鳥居は墓所の修復の際木戸孝允によって奉納されたもの。「大政一新之歳、木戸大江孝允」と刻まれています。
徳川家奉納の水盤と石燈籠
禁門の変の後、長州征伐の際、幕府によって破壊された松陰の墓を明治元年、木戸孝允等が修復したという経緯があるそうです。その墓所前の葵紋のついた石燈籠と水盤は修復を聞いた徳川が謝罪の意を込め奉納そたそうです。葵紋があるそうですが、現在は風化により紋は判別しにくくなっているようです。
石燈籠
境内には毛利元昭公を始め、門下の伊藤博文、山縣有朋等が奉献した32基の石燈籠があります。
吉田松陰
10代で藩の指南役となり24歳で黒船に小舟で乗り込もうとした長州の類いまれな思想家、活動家。著名な松下村塾での後進育成活動は、黒船に残り込もうとして捕まった後の幽閉中の話です。そのクレイジーっぷりを知りたい方はこちら(http://bakumatsu.org/blog/2012/05/syoin.html)を。
時の大老井伊直弼の墓がある豪徳寺です。井伊直弼は吉田松陰が斬首された安政の大獄という大粛正を起こした責任者で、松蔭の人生を29歳で終わらせた張本人です。実は墓が凄く近くにあるのです。これも因果か。
散歩がてら食べるなら世田谷線で一駅ちょっと歩いてこちらまで。美味しい台湾の肉まんが食べられます。
肉まん
ふわって感じのところにじゅって肉汁が出ます。
かわいくお茶をというならこちらでお茶しましょう。
カプチーノ
カフェアートのカプチーノでも飲んで下さい。
東急世田谷線って滅多に乗らないかもしれませんが、三茶から下高井戸までを繋ぐ渋い電車です。まさに松陰神社前駅という駅まであるので今回は是非電車で行ってみましょう。
世田谷線
約5キロ10駅しかない路線で東京では都電荒川線とともに数少なくなった路面電車です。なんと環七を横切ってます。
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オーナーがデザイナーの古本屋さん。デザインやアート系の本などが多いですが、次第にジャンルが広がっているようです。商店街の中のお洒落書店という感じで雰囲気あります。
ここはもう衝撃的に懐かしいです。閉店したと聞いていたのですが復活してたのですね。驚きました。学生時代に近所に良く行っていたのでいいことあるとここで食事をって機会が多くありました。東京には美味しいイタリアンがあるんだなぁって思った覚えがあります。今の洗練された東京のイタリアンとは違いますが、イタリアのイタリアらしいイタリアンというか素朴ないいイタリアンです。いや本当に懐かしい。お店の雰囲気は凄くいいですし、リーゾナブルですよ。ランチタイムもあります。
タラモサラダ
よくここのタラモサラダ食べました。最初聞いた時は何だそりゃでしたが。
ムール貝の蛸つぼ焼き
蛸つぼでやいたの食べてました。
ウニのクリームパスタ
これも美味しかったです。