小田原提灯片手に小田原城下町を散策
神奈川小田原提灯片手に小田原城下町を散策
まいどまいど! 神奈川県小田原市では古くから小田原城下町として発展し、今でも小田原城の名残を随所に見ることができまんねん。 かつては難攻不落、無敵の城ともいわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えたという小田原城の最寄り駅でおます小田原駅から出発! まず改札を出て最初に目に飛び込んできたのは、童謡「お猿のかごや」にも登場した小田原提灯でんな。 かつて小田原は旅人が行き交う東海道の宿場町として発展し、携帯しやすいようにと小田原出身の職人・甚左衛門が発案したとか。 今でも小田原提灯が製造され、お土産に購入する人も。 その他、グルメでは蒲鉾が有名で蒲鉾を製造販売する老舗が立ち並ぶ小田原かまぼこ通りが名所。 ここでは、大小様々な蒲鉾が販売され、地元の居酒屋では蒲鉾を元に山葵(わさび)を添えた板わさはもちろん、小田原の名産品の一つである梅を活かした「梅みそ」をつけて食べる小田原おでんや梅を活かしたお酒のハイボールもおすすめでっせ。 その他、海にも近く、年中海水浴客や釣りを楽しむ人で賑わう一面も。 さあ、小田原で観光にグルメに楽しんでいきまひょ!
東日本旅客鉄道(JR東日本)東海道本線、東海旅客鉄道(JR東海)、小田急電鉄小田原線、箱根登山鉄道鉄道線、伊豆箱根鉄道大雄山線の停車駅の一つ。 1920年、国府津駅を起点とする熱海線(東海道本線)の終着駅として開業。 1927年に小田原急行鉄道(小田急電鉄)、1935年に大雄山鉄道(伊豆箱根鉄道)と箱根登山鉄道、1964年に東海道新幹線の停車駅が開業。 乗り入れ鉄道事業者数は5社で日本最多。 江戸時代、東海道五十三次の第九の宿場が置かれ、交通の要所として発展。
近年では
1888年、国府津から小田原経由、箱根湯本への馬車鉄道が開業、鉄道唱歌にも取り上げられた。 2014年、東日本旅客鉄道の発車メロディが「お猿のかごや」に変更。
曽我煎餅
明治時代、創業。 日本三大仇討ちの一つ「曽我兄弟の仇討ち」の曽我十郎と五郎の霊を慰める為、毎年5月28日に下曽我の城前寺で傘焼き祭り法会が行われる。 魔除けや風邪を防ぐなどの効果があるとか。 僧を念仏衆や稚児等の行列が下曽我駅まで行き、供養の経をあげて寺へ帰っていく。
曽我煎餅
兄弟の孝行を称え十郎、五郎の名に因んで、十円と五円を孝行銭と称して紅白の餅とともにまき、相撲の強かった河津祐泰にならって子供相撲大会を開催。 第14回全国菓子博覧会で金賞受賞、第17全国菓子博覧会で無鑑査賞受賞。
後北条氏の祖、伊勢宗瑞(新九郎、早雲庵宗瑞)。 応仁の乱で駿河守護今川義忠が上洛し東軍に加勢。 京で幕府に出仕、建仁寺と大徳寺で禅を学ぶ。 9代将軍義尚に仕えて奉公衆となった。 駿河では龍王丸を補佐、石脇城(焼津市)で駿河館を襲撃し範満と小鹿孫五郎を攻撃。 龍王丸は駿河館に入り、元服して氏親を名乗り今川家当主となる。 早雲は興国寺城(沼津市)を所領とし、幕府奉公衆小笠原政清の娘・南陽院殿と結婚。 堀越公方足利政知の子茶々丸を襲撃。 享徳の乱で鎌倉公方足利成氏が幕府に叛き、将軍の命を受けた今川氏が鎌倉を占領。 伊豆を平定、今川氏の武将としての活動を行い、兵を指揮して遠江へ侵攻、中遠まで制圧。
小田原城
茶々丸の討伐・捜索を大義名分として甲斐守護武田信縄と戦い、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取。 千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して箱根山に伏せていた兵が鬨の声を上げて火を放つ。 数万の兵が攻め寄せたと混乱した小田原城では藤頼が逃走し、早雲は小田原城に入城。 扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが打ち破り、義同・義意父子の三崎城を攻撃し、滅び、相模全域を平定。
1632年、に稲葉正勝が栃木県の下野真岡城から移り、小田原藩主となった。 1685年、正勝、正則、正通を経て、三の丸堀の北方に「新蔵」がつくられたた。 米蔵屋敷として使用されていたが、蔵の機能は江戸時代に新蔵に移り、5軒の藩士屋敷に分割された。 また、元蔵は「本蔵」とも。
スペインの酒場「バル(BAR)」のスタイルを日本風にアレンジした和食バル。
板わさ
蒲鉾に山葵(わさび)を添えたまるうの板わさ。
小田原おでん
2003年、「小田原おでん」として誕生した小田原おでん 小田原おでんには「いわし団子」「ごぼうさつま」「野菜天」「小田原すじ」「たこ天」「地あじ雑魚ちくわ」「とと揚げ」「うずら卵浜のお月見」「えび天」「ゆず入りソフト鶏つみれ」「つみれ」「白はんぺん」「鯵といわしのふんわりだんご」があるが今回は7種盛り。 小田原おでんには辛子はなく、小田原の名産品の一つである梅を活かした「梅みそ」をつけて食べる。
ハイボール
小田原の名産品の一つである梅を活かしたハイボールもおすすめ。
やきとり・釜めし専門店。
ハイボール
小田原の名産品の一つである梅を活かしたハイボールもおすすめ。
地鶏唐揚
地元の食材を生かした地鶏唐揚、地鶏焼き鳥。
地鶏焼き鳥
地元の食材を生かした地鶏唐揚、地鶏焼き鳥。
板わさ
蒲鉾に山葵(わさび)を添えた板わさ。
ラーメンなどの飲食店や居酒屋を中心に軒を連ねている。
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江戸時代、地名としては既に存在していたとされる。 1614年、小田原城主大久保忠隣は2代将軍の徳川秀忠の補佐役となり、徳川家康の補佐役は本多正信であった。 次第に二人は対立し、忠隣は失脚。 当地は、日向御前(石川日向守の娘。別名、お谷津様)の屋敷であった。 1686年、大久保氏が再び小田原藩主となり、当地に割屋敷を建設した。 以後、日向屋敷と呼ばれるようになり、藩士の住まいがあったとか。
江戸時代、当地は小田原城の三の丸から二の丸への裏手の入口であった。 二の丸の北側にある弁財天曲輪、堀の蓮池が小田原城を守っていたとか。 戦国時代、小田原北条氏の四代目北条氏政が当主のとき、上杉謙信や武田信玄は当地付近から小田原城を攻撃したとか。 近年の発掘調査では、弓や鉄砲玉も出土したという。
3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。 最大の特徴は、豊臣軍に対抗する為に作られた外郭で、八幡山から海側までの町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだ。 相模国の豪族土肥氏一族・小早川遠平(小早川氏の祖)の居館であった。 鉢木物語にて、北条時頼から佐野源左衛門に与えられた。 1416年、上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚、駿河国の大森氏が奪い、勢力を拡大。 1495年、伊豆国を支配した伊勢平氏流伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張。 1561年、後北条氏と敵対する上杉謙信が越後から侵攻、小田原城の戦いに発展。
武田信玄と小田原城
1568年、甲斐国の武田信玄は駿河今川領国に侵攻(駿河侵攻)、後北条氏は甲相同盟を破棄して越後上杉氏との越相同盟を結び武田方に対抗。 1569年、信玄は北関東の国衆と同盟し後北条領国へ圧力を加え、後北条領国へ侵攻、小田原城を包囲する軍事的示威活動を行い、三増峠の戦いにおいて撃退。 1590年、豊臣秀吉が天下統一。
北条氏と小田原城
隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦、北条の台頭に対抗した佐竹義重・宇都宮国綱らとともに小田原城を総攻撃(小田原征伐、小田原合戦、小田原の役など)、開城。 北条氏政は小田原合戦で八幡山古郭の詰城に陣を置いた。 篭城戦では北条側が和議と抗戦継続を巡って議論したが結論に至らず、小田原評定という故事にもなった。 北条氏没落後、大久保忠世が城主となった。
城としての終焉
北条氏は、一族の北条氏盛が河内国狭山(大阪府大阪狭山市)の外様大名となった。 小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。
動物園も併設
1950年、小田原市ではこども文化博覧会の開催時に動物園を開園。
現在は
2005年、動物園の老朽化に伴って閉園。 現在もサルが飼育されている。
御用邸とは、天皇、皇后両陛下をはじめ、皇族方が静養を木庭に使用する宮内庁管理の施設。 全国に10カ所以上あったが、現在は葉山町の葉山御用邸、栃木県那須町の那須御用邸、静岡県下田市須崎の須崎御用邸の3カ所。 1901年、小田原御用邸は、小田原城の二の丸御殿跡(二の丸広場)に創設された。 1919年、小田原大火と呼ばれる火災が発生。 1923年、関東大震災により廃止された。 明治時代、幼少期の明治天皇の皇女子のため、東京・麻布の殿舎を移築してつくられたという鎌倉御用邸は、関東大震災でにより、大きな被害を受け、廃止となった。
八幡山古郭(別名、八幡山遺構群)は、丘陵上に位置し、東曲輪などの曲輪がある。 戦国時代、小田原城を形成した。 1590年、総構は豊臣秀吉との小田原合戦に備えて構築された小田原城の土塁と空堀にあたり、全周約9km。
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1932年、旧網問屋として建設。 2001年、再整備して憩いの場(お休み処、市民活動の発表の場)として開館した。 2階のイベントスペースでは、地場産業の情報発信、生涯学習、文化活動などの各種イベント会場として、利用されている。
小田原かまぼこ発祥の地。 かつて船方村と呼ばれ、漁業が盛んで漁師町としての賑わいを見せていた。 現在、かまぼこの本店が軒を構えている他、干物屋、鰹節屋、料亭、飲食店、和菓子屋などがある。 明治時代、二見初右衛門、山田小兵衛、山田又市という3つの魚市場があった。 以後、両山田が合併して小田原魚市場となり、大正時代に合併して小田原魚市場が誕生した。
小田原魚市場
小田原魚市場はその後、早川漁港に移転。 かつて、築港と呼ばれていた。 大漁に恵まれると、網元から漁師に鮮やかな赤や青色などの万祝着が贈られた。 毎年8月1日、これを着、大山、成田山、道了尊などにお参りをし、船の安全と大漁を祈願。
本陣跡
かまぼこ通り界隈には旧東海道の本陣跡が旧片岡本陣跡(明治天皇本町行在所跡)と旧清水本陣跡(明治天皇宮ノ前行在所跡)の2か所現存。 清水本陣は別名、大清水とも呼ばれ、4軒あった本陣の筆頭であったとか。 明治時代、本陣大清水では、明治天皇の御宿泊所となり、皇后とともに御幸の浜に行幸して鯛網を見、「御幸の浜」の名がついた。
明治時代、二見初右衛門、山田小兵衛、山田又市という3つの魚市場があった。 以後、両山田が合併して小田原魚市場となり、大正時代に合併して小田原魚市場が誕生した。 小田原魚市場はその後、早川漁港に移転した。 かつて、築港と呼ばれていた。 大漁に恵まれると、網元から漁師に鮮やかな赤や青色などの万祝着が贈られた。 毎年8月1日、これを着、大山、成田山、道了尊などにお参りをし、船の安全と大漁を祈願した。
1781年、創業。 ここは、「かまぼこ発祥の店」として知られ、お歳暮ギフト商品、送料無料商品、小田原板かま、伊達巻、さつま揚げなどを販売する。
炙りじねんじょ棒
フードコーナーが設置され、蒲鉾、自然薯の蒲鉾をはじめ、小田原おでん、地酒、地ビールなどを味わうことができる。
1814年、旧町名「千度小路(船頭小路)」で創業。 軒先に掲げた「加古淸」という看板は欅の厚板で、三井物産の創設者の益田孝(鈍翁)の筆によるもの。 200年代、神功皇后による三韓征伐の際、すりつぶした魚の身を鉾の先につけ、焼いて食したのがはじまり。 「蒲鉾」という名の由来は、形状が植物の穂に似ていたことから。 1432年、小田原城主が大久保忠信となったころ、小田原で蒲鉾づくりが盛んとなった。 獲される魚の評判を聞き、日本橋の蒲鉾職人などが小田原に移り住んだとも。 新鮮な魚を箱根に供給することが困難であったため、保存性のよい蒲鉾が誕生した。
揚げづくし
お土産にも最適。
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