
梅原猛の「隠された十字架 - 法隆寺論」散歩
奈良梅原猛の「隠された十字架 - 法隆寺論」散歩
歴史は藤原不比等によって日本書紀において偽造された。しかし、どうしても偽装しきれないものが残る。その真実の隠された尻尾が、正に法隆寺ではないか、と梅原猛は書いている。 古事記はオオクニヌシの鎮魂を、日本書紀は聖徳太子とその一族の鎮魂と、聖徳太子を聖人に祭り上げることによる仏教の促進とそれにより人々を引きつけるための藤原不比等の戦略であった。 そして藤原氏の幸せを願うための興福寺と聖徳太子と一族の鎮魂のための法隆寺を同時に建てる事により藤原不比等は安心感を覚えたのではないか、と梅原猛は分析している。
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歴史は藤原不比等によって日本書紀において偽造された。しかし、どうしても偽装しきれないものが残る。その真実の隠された尻尾が、正に法隆寺ではないか、と梅原猛は書いている。 古事記はオオクニヌシの鎮魂を、日本書紀は聖徳太子とその一族の鎮魂と、聖徳太子を聖人に祭り上げることによる仏教の促進とそれにより人々を引きつけるための藤原不比等の戦略であった。 そして藤原氏の幸せを願うための興福寺と聖徳太子と一族の鎮魂のための法隆寺を同時に建てる事により藤原不比等は安心感を覚えたのではないか、と梅原猛は分析している。
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藤原氏一族は、先祖である中臣鎌足らが聖徳太子一族25人を無実の罪で若草伽藍(現在の法隆寺東院伽藍と重なる)の塔の中で殺害し聖徳太子一族の血を消滅させた過去の犯罪を知っていたとする。
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門の真ん中に柱を立て内部に棲む霊を閉じ込めている。 偶数の間で入口が出来ているのは、法隆寺と大国主の命の鎮魂のために建てられた出雲大社だけだと梅原猛が指摘する。つまり法隆寺が殺害された聖徳太子親族25人の鎮魂のために作られた1つの証だとする。封印するために作られているとする。 閉ざされた空間に金堂と五重塔が建つ。そこに聖徳太子とその一族の鎮魂のための像が納められている。
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梅原猛は、出雲大社と同じ偶数の間で建てられた中門と塀に囲まれたこの一画で聖徳太子とこの地で殺害された聖徳太子一族25人の霊を閉じ込めるために建てられた鎮魂の寺であるとしている。
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梅原猛は、出雲大社と同じ偶数の間で建てられた中門と塀に囲まれたこの一画で聖徳太子とこの地で殺害された聖徳太子一族25人の霊を閉じ込めるために建てられた鎮魂の寺であるとしている。
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藤原不比等の妻である橘三千代が夫の死後に行基に依頼して造らせたもとの事。西に西円堂、そして更に娘である光明皇后が東に建てた六角堂がある。
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東院伽藍にある。かつての聖徳太子が住んでいた場所。 聖徳太子死後、藤原氏一族は、先祖である中臣鎌足らが聖徳太子一族25人を無実の罪で若草伽藍(現在の法隆寺東院伽藍と重なる)の塔の中で殺害し聖徳太子一族の血を消滅さている。 その後、藤原不比等が亡くなった後、藤原氏にとって大きな不幸が続く。北九州から広がってきた疫病などの為に不比等の4人の息子が相次ぐ死ぬ。 これは東院伽藍で封じ込めたはずの聖徳太子の怨霊による祟りとの思いから不比等と橘千代との間に生まれた娘である光明皇后がその聖徳太子一族の鎮魂の為に建てたのが夢殿である。聖徳太子の屋敷跡に六角堂、つまり墓を光明皇后が僧行信に建てさせた。
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聖徳太子が母を祀るために建立している。
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不比等と橘千代との間に生まれた娘である光明皇后がその聖徳太子一族の鎮魂の為に建てたのが夢殿である。聖徳太子の屋敷跡に六角堂、つまり墓を光明皇后が僧行信に建てさせた。僧行信は呪詛を得意とする。夢殿に秘仏として安置されている救世観音と言われている像は聖徳太子の写しとされているが、木像であり頭に後ろから釘が打たれている。僧行信は、後に、どなたかへの呪詛の罪で下野薬師寺に流されている。 https://youtu.be/kO_B2tj8mFk
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天平勝宝6年(754年)僧行信が、その後に行った呪詛の罪で当寺に遠流される。 僧行信は、法隆寺夢殿を光明皇后の依頼により建てた僧である。 藤原不比等が亡くなった後に藤原不比等の4人の息子が相次ぐ死ぬ。聖徳太子とその一族25人を無実の罪で若草伽藍の塔の中で殺害し一族の血を消滅させた怨霊による祟りとの思いから鎮魂の為に夢殿を建てたとしている。 その夢殿を藤原不比等と橘千代との間に生まれた娘である光明皇后が呪詛僧行信に依頼して夢殿を建てた。 夢殿に秘仏として安置されている救世観音と言われている像は聖徳太子の写しとされている。木像であり頭に後ろから釘が打たれている。僧行信による呪詛としている。
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藤原不比等の妻であり、聖武天皇のお后である光明皇后の母でもある橘三千代の邸宅を移設したと言われている。 藤原氏の血を濃く引く天皇家の人々が、737年に相次いで死んだ藤原四兄弟の出来事が、聖武天皇はじめ親族が恐怖を感じたと言われる。つまり、蘇我氏一族の血を引く皇族に関わる祟りと恐れたと言われる。つまり、聖徳太子一族の皆殺しの祟りだと恐れた。その鎮魂のために光明皇后が夢殿をそしてその北に母親であり藤原不比等の妻である橘千代の建物で囲うように移設したと言われている。夢殿は呪詛を得意とする行信に建てさせ、その行信が聖徳太子の鎮魂のために聖霊会を行ったのが現在も行われている。(梅原猛「塔」より)
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聖徳太子は、山背大兄王ら子供達の産湯のために3つの井戸(三井)を掘らせたという。その内の現存する1つ。
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聖徳太子死後数十年後に建立されたとしている。
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聖徳太子の御子・山背大兄王創建とも伝えられている。
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Wikipediaによると 前園実知雄(奈良芸術短期大学教授)や白石太一郎(奈良大学教授)は、2人の被葬者が『日本書紀』が記す587年6月の暗殺時期と一致することなどから、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部皇子の可能性が高いと論じている。 一方、井沢元彦や高田良信(法隆寺長老)は副葬品や埋葬の様子から「元々穴穂部皇子の陵墓であった所に同母弟でこれもまた蘇我馬子が東漢駒に暗殺させた第32代崇峻天皇が合葬された」との説を主張した。 とある。
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親切な説明を受けました。有難うございます。
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久しぶりの法隆寺駅下車
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梅原猛は、中臣鎌足(藤原鎌足)の長男である定慧を祀る神社ではないかと推測している。定慧は孝徳天皇の子である可能性があり、猜疑心深い天智天皇から逃れることができなかったと指摘している。遣唐使としての帰国後、大原の里で毒殺されている。また、中臣鎌足の次男が藤原不比等であるが、こちらは天智天皇の子であるとの説もある。中臣鎌足はかつて古人皇子と有馬皇子を襲った運命が長男に降りかかった運命がこの神社に込められていると梅原猛は推測している。
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法華寺にある藤原不比等をモデルとした像の写真がここに展示されていました。
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中臣鎌足の墓。立派な石室が発見されている。多武嶺縁起では鎌足の長男である定慧がここにあった中臣墓を談山神社がある寺に迎えたとある。しかし、その縁起に書かれている内容が作り話であることが判明している。定慧は遣唐使としての入唐から帰国後、鎌足が健在時に大原で毒殺されている。ここに立派な石室が発見されたことは、縁起に書かれている内容が作りことである事の証でもある、と 梅原猛が述べている。
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ここには空海、親鸞、西行などから訪れている。かつては墓の中に入る事ができ、空海が内部の簡単なスケッチを描いている。
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聖徳太子が誕生した地である橘宮に建立した橘寺との伝説のある寺。 聖徳太子は用明天皇磐余池辺雙槻宮跡伝承地で生まれているのでこの地が聖徳太子誕生の地とするのは後に作られた伝説かなと思う。 むしろこの寺は聖徳太子一族の鎮魂の寺として考えている梅原猛の説が面白い。 つまり平城京遷都の後に建てられた聖徳太子一族鎮魂の寺である法隆寺に相当する寺で斉明天皇の霊を祀る川原寺と対をなしている。 斉明天皇は宮が啞として生まれた孫である健皇子つまり天智天皇の子の病が殺害された聖徳太子一族25人の祟りである事を憂いた斉明天皇がこの地に聖徳太子の霊を呼んで供養した場所である、との梅原猛が説く話に魅せられます。
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仏教伝来から始まった物部VS蘇我の戦いに撃ち勝って、物部氏を滅亡に追い込んだ稲目の息子・蘇我馬子は、その、翌・崇峻天皇元年(588年)、初めて本格的な寺院の建立に乗り出した、とのことです。 それが、日本初の僧寺・法興寺(または元興寺あるいは本元興寺)、つまり飛鳥寺なのだそうです。そして、天智、天武、持統、文武の時代、飛鳥四大寺の1つとして扱われた。蘇我氏鎮魂の為の飛鳥寺、国家安泰を祈る大官大寺、天智天皇と天武天皇の母親である斉明天皇の霊を祀る川原寺(引福寺)、そして天武天皇と持統天皇の愛の結晶である薬師如来を祀る薬師寺。
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抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 天智、天武、持統、文武の時代、飛鳥四大寺は、蘇我氏鎮魂の為の飛鳥寺、国家安泰を祈る大官大寺、天智天皇と天武天皇の母親である斉明天皇の霊を祀る川原寺(引徳寺こうとくじ)、そして天武天皇と持統天皇の愛の結晶である薬師如来を祀る本薬師寺からなっている。 その後、平城京への遷都で最後まで藤原氏の采配の下での遷都を拒んだ唯一の寺であったことから、今でも小さいながら藤原京の地に飛鳥寺としての残っている。他の3寺は今は、跡形もない。
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藤原不比等がここに藤原氏の氏神をである春日大社を祀る前までは、この榎本神社が三笠山を神として祀る神社であったとのこと。
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古事記によると、“弟のタチバナノトヨヒの命(用明天皇)、大和の池の邊の宮においでになつて、三年天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 聖徳太子はここで生まれてことになる。橘寺で生まれたとの話は後に作られたということか。
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用明天皇陵
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『伝暦』によると 推古29年2月、太子は斑鳩宮にあって紀に命じて沐浴せしめた。太子も沐浴して新しい衣服に着替えた。所謂、死装束である。そして紀に言った。「私は今夜、死のうとおもうが、お前も一緒に死ぬか」。紀もまた新しい衣服に着替え、太子と共に寝た。(中略)そして太子は紀と共に死でいた。 そして、皇極2年に太子の子孫である山背大兄皇子を含む25人が今の法隆寺のある場所で皆殺しにされる。 更に、2年後、蘇我入鹿が誅滅される。 太子は父である用明天皇陵の近くに自らの墓をこの地に作られている。 聖徳太子とその一族の鎮魂のために法隆寺が藤原不比により建立される。
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