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大塩の乱でここにあった樹齢200年の槐に砲弾があたり避けた場所。
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大塩平八郎の邸宅兼私塾である洗心洞の跡 天保7年(1836年)秋から次の年の夏に起きた天保の大飢饉で大坂東町奉行の跡部良弼は幕府への機嫌取りのために大坂から江戸へ強制的に廻米し、また豪商が米を買い占めた。大塩平八郎は、心を痛め、跡部良弼に対して、蔵米を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせるなどの提案を跡部良弼に行った。しかし無視されたため大塩平八郎は、もはや武装蜂起以外に根本的解決は望めないと考え、天保8年2月19日(1837年3月25日)に門人、民衆と共に蜂起する。しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなったこともあって、蜂起当日に鎮圧されている。
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この辺りに多くの与力が住んでいた。この門が唯一残る当時の門。
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大塩の乱でこの東照宮あたりから捕方が大塩宅を攻める様子が描かれている。
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大塩平八郎は、この橋を渡り東町奉行所に通っている。 葛飾北斎が描いた当時の天満橋の絵が現存している。
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奉行所時代の大塩平八郎の勤め先。 上司の東町奉行・高井実徳が大塩平八郎の良き理解者であった。
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大塩平八郎は、東町奉行所に勤務していた頃、組違いの同僚である西町奉行与力・弓削新左衛門の汚職を内部告発するなど、汚職を嫌い、不正を次々と暴いた。
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森鴎外の作品「大塩平八郎」に “平八郎は難波橋の南詰に床几を立てさせて 、白井 、橋本 、其外若党中間を傍にをらせ 、腰に附けて出た握飯を噛みながら 、砲声の轟き渡り 、火焔の燃え上がるのを見てゐた 。”とある。 元をたどると704年ごろに行基によって架けられたといわれている。天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置する。
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成正寺に養子の格之助と共に眠っている。
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大塩平八郎は、養子の格之助と共に戦場から離れた後、淀川に船を浮かべて日が暮れるまで大坂東町奉行所の様子を伺っている。その後、河内国を経て大和国に逃亡しようとしたが。数日後、再び大坂に舞い戻って下船場の靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅の裏庭の隠居宅に潜伏した。1か月余りの後、美吉屋の女中による密告のため隠居宅は役人に囲まれる。養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて大塩平八郎は自決している。
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私は、司馬遼太郎の作品であったか随筆でこの方を初めて知った事を覚えている。
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門弟出会った方のご自宅
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緒方洪庵塾跡に昔訪れたことがある。
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