
金融の中心地・北浜
大阪金融の中心地・北浜
まいどまいど! 東京の兜町に並ぶ金融の中心地っちゅうたら、大阪の北浜でんがな。 ここには、五代友厚はんゆかりの大阪証券取引所がおまして、なおかつ、レトロでモダニズム建築でも注目を集めてはりまんな。 ここ北浜はかつて、北の濱と呼ばれ、天下の台所として江戸時代から、えらい繁盛していたらしいでんな。 特にこの界隈は土佐堀川に面し、多くの舟が行き交うて、ぎょうさんの蔵屋敷や家屋が建ち並んでましたんや。 ほんで、やがて、内北浜通と北浜通が完成し、高麗橋などから金相場会所、俵物会所、銅座、各種問屋、両替屋などが移転して立ち並び、経済・金融取引の街へと発展していったんやね。 また、日本のお金1万円札にも描かれている福沢諭吉はんのゆかりの地でもあるため、福沢諭吉が通っていたという緒方洪庵先生の学校は当時のままの姿で史料館として保存され、見学することもできまんねん。 その他、京都府発祥の企業として知られる住友財閥も北浜に本社・本店が集中させたことから、現在でも北浜から今橋(高麗橋)にかけての一角を住友村とも呼んでまんねん。 大阪のキタ・ミナミに並ぶ繁華街北浜のおもろいとこを発掘していきまひょ!
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江戸時代、中之島周辺には全国から集まった蔵屋敷が建てられていた。 堂島米会所で「帳合米取引」が行われた。 世界で初めてとなる「公設の商品先物取引」と言われる。 1878年、大阪株式取引所設立が売買取引開始。 1935年、長谷部竹腰建築事務所が設計して、市場館を竣工。 1943年、日本証券取引所大阪支所。 1949年、大阪証券取引所が設立。 2004年、三菱地所や日建設計が設計し、現在の大阪証券取引所ビルが竣工。 地上24階、地下2階建。 正面の銅像には、五代友厚氏の銅像が建てられている。 米穀取引所が起源となり、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が前身となる。
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大阪金相場会所跡
江戸時代、貨幣制度は、計数制や秤量制があった。 金は両、銭は貫、銀は秤ではかる匁などがあった。 そして、関西は銭、関東は金と流通範囲が分かれていたと言う。 このことから、金相場の会所は存在価値が高かった。
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五代友厚
1836年、薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷(鹿児島市長田町)生まれ。 幼名は徳助。通称、才助。 大阪株式取引所(現在の大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現在の大阪市立大学、天王寺商業高等学校)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現在の南海電気鉄道)などの設立に関わった。
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1875年、料亭「加賀伊」で、大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが会議を行った。 その会議を大阪会議と呼ぶ。 ここでは、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。
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大阪会議開催の地
一説によると、首都機能を京都から大阪に移転させる大阪遷都論などを話し合ったとか。
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大阪会議開催の地
大阪会議の際、「加賀伊」の名称を木戸孝允が「花外楼」に変えさせたと言われている。 現在でも木戸孝允の筆による「花外楼」の額が保存されている。
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1912年、証券会社仲買業者の社屋として竣工した。 また、国の登録有形文化財に指定された。
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「俵物」と呼ばれた、フカフレ、干しナマコなどの海産物がある。 主に、長崎から、中国に向けて輸出されていた。 1744年に、大阪に「会所」が設けられ、そこで売買が行われた。 当初の会所は大阪市中央区備後町にあった。 1777年からこの地に移り、明治まで栄えた
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1835年、福沢諭吉は大阪市福島区福島に存在していた中津藩屋敷で生まれた。 1855年、大阪市中央区北浜に設立された適塾に通い、緒方洪庵の元で学んだ。 1858年、江戸・築地鉄砲洲で蘭学塾を開校し、1868年に慶應義塾を開校した。 1873年、最初の分校が大阪に開校された。 開校当時、多くの入学者が見込まれていたが、約2年で閉校し、徳島慶應義塾が引き継いだ。 1875年、徳島慶應義塾は慶應義塾の分校として開校したが、約1年で閉校。
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大阪府大阪市の北区と中央区とを南北に結ぶ道路の一つ。 御堂筋と堺筋の間にあり、大阪市道三休橋千日前線のうち道頓堀通以北に当たる。 別名、栴壇木橋筋、笠屋町筋。
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ガス灯
中之島の中央公会堂から三休橋交叉点にかけては、多くのモダニズム建築(近代建築)が目立つ。 1964年、道路名の由来となった三休橋はかつて長堀川に架橋、長堀川の埋立てに伴い撤去。 三休橋の名称の由来は、長堀川に架かる橋の中で往来の多い心斎橋・中橋・長堀橋の三橋を休めるための橋とも。 またガス燃料の燃焼による照明の一つ「ガス灯」も。
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1838年、緒方洪庵が瓦町に蘭学塾を開く。 1845年、大阪市中央区北浜へ移転。 福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など、幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出。 漫画家、手塚治虫の曽祖父にあたる手塚良仙も門下生の一人であった。 塾は、明治維新後、大阪医学校の開校にあたり、教師・塾生とも移籍する事によって、その歴史を閉じた。 大阪医学校の後身が、大阪大学医学部である。 適塾と大阪大学との繋がりは、適塾の教師・塾生がともに大阪医学校に移籍することによる。 1822年、仙台藩学校蘭科が開設されて日本初の西洋医学講座を実施。
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緒方洪庵とは
1810年、生まれ。 1826年、中天游の私塾「思々斎塾」で、蘭学を学ぶ。 1838年、大阪市中央区瓦町で医業と蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。 1845年、大阪市中央区北浜三丁目に適塾を移転。 1849年、大阪市中央区道修町に除痘館を開く。 1862年、奥医師兼西洋医学所頭取として、江戸に出仕。
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緒方洪庵像
適塾では緒方洪庵の像が建立されている。
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かつては北の濱と呼ばれていた。 江戸時代、大阪の前身にあたる大坂は天下の台所としての賑わいを見せるようになった。 特に、当地周辺は川が張り巡らされ、多くの舟が行き交い、多くの蔵屋敷や家屋が建ち並んでいた。 やがて、内北浜通と北浜通が完成し、金相場会所、俵物会所、銅座をはじめ、各種問屋、両替屋などが立地し、経済・金融取引のまちへと発展した。 また、この界隈は、慶應義塾を開校させた福沢諭吉のゆかりの地としても知られ、当時、福沢諭吉が通っていた適塾の建物は史料館として整備され、今も現存している。
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江戸時代前期、大阪を代表する淀屋が最大の豪商である。 本姓は、岡本氏。 通称、三郎右衛門とも呼ばれ、城州岡本の出身である。 豊臣時代、十三人町(大阪市北区大川町)で、材木を扱った。 1615年、京橋一丁目の淀屋持地に青物市を開いた。 中之島を発展させ、常安請地を開いた。 現在でも当時の名である常安橋や常安町が残っている。 心斎橋筋から西肥後橋の周辺に宅地があったと言う。 その宅地内の小路は淀屋小路と呼ばれている。 町人蔵元の元祖と言われていた。 自費で土佐堀川に橋をかけたと言う。
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林氏は、肥後(熊本県)出身で帝国大学を卒業した。 三重県や山口県知事を経て、大阪府知事を歴任。 7年米騒動に際して小河滋次郎とともに方面委員を創設した。 現在の民生委員制度の始まりとされ、民生委員の父といわれている。 後の日本信託銀行頭取などを務めた。
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1901年、オッペケペ一節や壮士芝居で知られた川上音二郎が、新派の拠点として建築した。 大阪で初めてとなる純洋式劇場で「オセロ」「ベニスの商人」などを上演したと言う。
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手形交換所とは、一定地域内の金融機関が約束手形や小切手などを持ち寄って決済交換を行う場所である。 1773年、世界で最初の手形交換所はロンドンで開設された。 1879年、 日本で初めての手形交換所として、当地に開設された。 1887年、東京で開設された。
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現在は、三井住友銀行大阪本店。 前身は、大阪銀行、友銀行大阪本店。 1662年、泉屋平兵衛友貞が両替商を手掛けたことが、金融業務を始め、泉屋両替店がその起源となる。 1895年、住友吉左衛門の個人経営によって開業。 1930年、竣工、現在も残る。