町工場が密集する大阪府門真市。なみはやドームで楽しむスポーツの一日。
大阪町工場が密集する大阪府門真市。なみはやドームで楽しむスポーツの一日。
まいど! 大阪市に隣接し、商業のまち・産業のまちとしての両面を持つ大阪府門真市を散策しまひょ! ここには、国際公認50mのプールを保有したなみはやドームがあり、全国高等学校総合体育大会の会場にも選定されたことがありまんねん。 ほんで、50mのプールだけやなく、水泳初心者も楽しみやすい25mもありまっさかい、気軽に遊ぶことができまっせ~! 夏場はプール。 ほな、冬は? せやねん。そこですねん。 冬場は、な、な、なんと、スケートリンクに生まれ変わりまんねん。 一年中、いろんなスポーツで楽しめるなみはやドームで気持ちのええ汗を流しまひょ! さらに、門真市民プラザ(旧大阪府門真南高等学校)では廃校になった今も校舎をそのまま残し、地域の交流の場として利用され続けています。 子育て支援を目的とした「なかよし広場」、市民の学習活動や文化活動を支援する「生涯学習センター」、自然災害が発生したときに使用する災害防災備蓄庫、教育に関する調査研究などを設置。 この他に、門真市の歴史を紹介したコーナーや図書館も。 スポーツに学習に地域の交流の場に。 大阪府門真市は人と人がつながるまちでんねん。
門真市の地域通貨「蓮」をPR。 門真市のレンコン畑で一番大きな蓮の花から生まれた妖精。 年齢は8歳。 人と人とのお互いの交流を深めることを目的に通貨が生まれた。 100円=100蓮
総合多目的アリーナで、大阪府立門真スポーツセンターとも呼ばれる。 1997年、なみはや国体(夏季大会)のメイン会場となった。 夏季は国際公認50mコースや短水路(25m)コースを保有する水泳場。 冬季はアイススケートリンクとしても利用されるメインアリーナ。 他にも、サブアリーナ、サブプールなどを持っている。 2006年、平成18年度全国高等学校総合体育大会「06総体THE近畿」の総合開会式場となった。 2005年から2006年、バスケットボール・bjリーグの第1大会が行われた。 クラブチーム「大阪エヴェッサ」のホームコートにもなっている。 1999年、大阪プロレスの旗揚げ戦を行った。
淀川の堤防「茨田堤」の鎮守として創建された。 創建時期など詳細は不明となっている。 祭神は、天照皇大神、素盞嗚神、大己貴神(大国主)。 大己貴神を祀る「山王宮」として創建。 素盞嗚神を祀る「八剣大明神」に改称。 天照大神を祀る「両村神社」に改称。 明治時代、式内・堤根神社の後裔「堤根神社」に改称、郷社・三島神社に合祀後、独立。
古川沿いにある個人の邸宅内に生育しており、推定樹齢は400年以上。 明治時代、付近は、乗船場として栄え、休憩所や宿も営業していたと言う。
創建時期など詳細は不明となっている。 山王権現として創建。 明治時代、「三島神社」に改称。 他、「三ッ島神社」「三嶋神社」などと呼ばれている。 稗島の堤根神社を合祀後、独立。 境内では天然記念物に指定された薫蓋樟が生育している。 1990年、大阪市鶴見区で開催れた「国際花と緑の博覧会」(花博)にて「新日本名木100選」に選定。 その他、「大阪みどりの100選」に選定。 「薫蓋樟」の由来は、幕末に活躍した公家・千種有文(左近衛少将有文)の歌碑に基づいている。 石碑には、「村雨の 雨やどりせし 唐土の 松におとらぬ 樟ぞこの樟」と刻まれている。
布施家は古くから商家として活躍してきた。 布施寛氏は、府立四条畷高校校長、門真市教育委員等を歴任された。 また、これまで収集してきた陶器、絵画などの美術品を門真市に寄贈。 門真市立市民交流会館中塚荘にて展示している。 「荘」とは、別荘という意味であるとともに、人と人が集う場としての意味を持つことから名付けられた。
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大阪府立門真南高等学校が廃校。 子育て支援、生涯学習、スポーツ振興などの複合型公共施設として開設。 4階建て校舎がほぼ当時のまま現存している。 1階では子育て世代の親子が集う場として「なかよし広場」を設置。 また、門真市の歴史の紹介なども行っている。 2階では、市民の学習活動や文化活動を支援する「生涯学習センター」を設置。 また、図書館を開設し、本の貸し出しなども行っている。 3階では、自然災害が発生したときに使用する災害防災備蓄庫を設置。 4階では、教育に関する調査研究を行っている。
淀川の堤防「茨田堤」の鎮守として創建された。 創建時期など詳細は不明となっている。 祭神は、彦八井耳命・菅原道真である。 淀川の支流・古川の南岸のかつての茨田堤付近に鎮座する。 淀川沿い堤防「茨田堤」の築造に携わった茨田氏が、堤の鎮守として祖神・彦八井耳命を祀ったと言う。 付近は、河内と大和を繋ぐ行基道があり、古くから信仰を集めてきた。 江戸時代、この地の領主・永井尚政(永井信濃守尚政)氏によって菅原道真を合祀。 以降は「天満宮」と称していた。
仁徳天皇は、洪水被害などを防ぐことを目的として、淀川沿いに築かせた堤防である。 古墳時代、ヤマト王権が発足御、中国、朝鮮などとの交流を深めるため、瀬戸内海は重要な交通路となっていた。 拠点を奈良盆地から大阪の上町台地の高津宮に移した。 河内平野では、河内湖(草香江)と呼ばれる広大な湖が存在していた。 また、淀川、平野川(現代の大和川)など多くの河川が集中していた影響により、洪水や高潮などの被害が相次いだ。 ヤマト王権は、安全を確保するため、淀川分流の流路に沿って堤防を築造した。 当時、地名を「茨田」としていたので、「茨田堤」と呼ぶようになった。
茨田堤
堤根神社やその付近では今も堤防の名残が道なりに続いている。
1478年、本願寺第8世法主蓮如によって、真宗念仏布教の道場「古橋御坊」が建立。 1513年、石川県白山市鶴来町・清澤願得寺を創建後、享禄の錯乱で焼失。 1500年代、実悟氏は「古橋御坊」を「願得寺」とし開基、再建した。 1577年、正親町天皇より勅許院家となり、「一家衆」として、東本願寺の中心的な立場となった。 1492年、実悟は生まれた。 父は蓮如、母は畠山政栄の娘蓮能尼で、加賀本泉寺住持蓮悟の養子、清澤願得寺に移住。 正門にはかつて、伏見桃山城の楼門が移築されたが倒壊。
甘いソースの香りに誘われて、つまようじを手に持ち、たこ焼き一つを持ち上げると、青のりがパッパと舞っている。 アッツアツ・フワフワの“できたて”たこ焼きを頬張りながら、至福のひと時。
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