あべので見つけたサッちゃん
大阪あべので見つけたサッちゃん
まいど! 陰陽師・安倍晴明はんは大阪市生まれっちゅうことを皆さんはご存知でっしゃろか? 京都にも安倍晴明にまつわる神社が鎮座しており、全国的にも有名やねんけど、実は大阪市阿倍野区にも産湯に使用されたとされる井戸が安倍晴明神社には残ってまんねん。 境内には安倍晴明の銅像が建立され、隠れたスポットとして人気を集めてはりまんな。 付近では、なにわの伝統野菜の一つとして知られる天王寺蕪の栽培地として古くから有名で、石碑も建立されてまんねん。 また、阿倍野区は吉田兼好のゆかりの地としても知られ、伝説ともなってはりまんな。 ほんで、大阪っちゅうたら長屋でんな。 最近では都市開発が進んで、コンクリートやマンションが目立ってまんねやけど、阿倍野区の一角では古い町屋を残そうと寺西家長屋が奮闘してはりまんな。 飲食店として営業もし、気軽に立ち寄ることができまっせ! 最後に、「サッちゃんはね サチコっていうんだ ほんとはね」ではじまる童謡「サッちゃん」も実は大阪生まれ。 幼稚園前には石碑が建立されてはりまんねん。 日本最大のあべのハルカスだけやない阿倍野区の魅力を案内していきまっせ!
日本で初めて、長屋の文化庁登録有形文化財に指定。 戦前から残る四軒長屋である。 近代長屋の外観を残し、飲食店として現存している。
ハナモモやサクラの名所として知られる。 池は古くから「ももがいけ」と呼ばれてきたが、かつては「脛ヶ池」「股ヶ池」とも表記された。 桃ヶ池に棲んでいた大蛇を聖徳太子が退治した、という内容の伝説が残る。 その際、股ヶ池浮島に穴を掘り大蛇の死体を埋葬したが、その後も怪異が続くというので霊を沈めるため「おろち塚」が作られ、昭和初期まで残っていたとされる。 また桃ヶ池公園に隣接して設置されている「股ヶ池明神」は、角田某という人物が、夢に出た蛇霊を奉るために、丸高竜王、丸長竜王として祭ったことが起源と伝わる。 この桃ヶ池公園は、都市計画に基づく区画整理で完成した公園として、日本初のものである。
阪田寛夫が作詞した日本の童謡「サッちゃん」。 作曲家の大中恩は従兄弟にあたる。 1925年、大阪市生まれ。 同人誌を三浦朱門らとともに創刊した。 1959年、NHKラジオ「うたのおばさん」放送開始10周年記念リサイタルにて、新曲として発表。 阪田寛夫は、「幼い頃、近所に住んでいた少女「サッちゃん」のことを歌っている」と語った。 阪田寛夫が通う幼稚園と同じ幼稚園に在籍していた少女が主人公で、1年上のクラスだったという。 1974年、小説「土の器」の芥川賞をはじめ、毎日出版文化賞、川端康成文学賞などを受賞した。
1893年、シャープ創業者の早川徳次氏は、東京府(東京都)東京市日本橋区生まれ。 ベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」、水道自在器(蛇口)を発明。 早川繰出鉛筆(後のシャープペンシル)の内部部品製造を行い、特許を申請。 関東大震災が発生した為、大阪に移住。 当地で早川金属工業研究所を設立し、国産第1号機となる鉱石ラジオ受信機の開発に成功。 シャープペンシルが由来となり、シャープに社名変更。 早川氏は、日本のエジソンとも言われ、「まねされる商品をつくれ」が口癖となった。 国内初のテレビ、電子レンジの国内生産、世界初のオールトランジスタ方式の電子式卓上計算機などを発明。
他、むつみ商店街、北畠公園本通商店街などと接続する。 主に、飲食店や居酒屋、雑貨店などが立ち並ぶ。
古代から、上町台地の上には古墳や塚が作られることが多かった。 この松虫塚は、通りがかりの旅人が松虫の声に聞き入り、命絶えたことをあわれんで供養されたものと言われている。 また、後鳥羽天皇寵愛の白拍子松虫鈴虫姉妹が当地に隠れ住んだとして知られる。
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安倍王子神社の境外社である。 1007年、創建された。 1925年、再建された。 拝殿は三間社入母屋造で本殿は流造である。 晴明宮御社傳書には、大彦命と彦太忍信命は同一人物で、両者が合体したような名「太彦忍信命」で、阿倍氏の祖として記載されている。 また、阿倍氏は、氏族名を記載するとき、最初に、阿閇氏の漢字を使っていたとも書かれている。
安倍晴明生誕地
祭神である安倍晴明はこの地で生まれたといわれている。 境内にはその産湯の井戸がある。
かつては安倍野王子だった。 ここは、熊野神社の分霊社である。 仁徳天皇が夢に熊野三山の使いである三本足の烏(=八咫烏、やたがらす)を見た。 そして、同じものが当地にいたのが始まりといわれる。
天王寺蕪
春の七草の「すずな」「かぶ」。 中央アジアや地中海周辺が原産地。 明治時代、大阪府内の生産量は約1800トンあったと言う。
大阪馬車鉄道株式会社が設立された。 軌道上の客車を馬に牽かせた鉄道で、天王寺西門前から東天下茶屋までが開通した。 1908年、馬車鉄道は廃止された。 1910年、電化により、天王寺西門前から住吉前までの営業を開始して以後、現在は阪堺電気軌道上町線として活躍する。
1901年、大阪市西区生まれの小説家。 父の宗太郎は貿易会社の運搬部勤務。 1909年、父の転勤に伴い、東京市にある芝区白金頌栄尋常小学校へ転入した。 1911年、父の転勤に伴い、三重県志摩郡にある鳥羽尋常高等小学校へ転入した。 1914年、父の転勤に伴い、大阪にある旧制北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)へ転入した。 その後、中退し、メリヤス問屋の丁稚となるが、同校へ再入学する。 京都市上京区に住み、第三高等学校理科甲類に入学する。 1924年、東京帝国大学文学部英文科に進学。
別々の場所に塚は付近の道路整備により現在地に移転。 南北朝時代、住吉の合戦で南朝の忠臣楠正行と戦って敗れた播磨の太守である赤松円心の子貞範が、戦死した将兵の遺骨を納めて播磨塚を築いた。 小町塚は、小野小町の塚であるとの説がある。
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松原三五郎が中心となって天彩画塾が開設。 大阪で初めてとなる本格的な油彩画を主とした洋画塾である。 東京で油彩画を学んだ松原三五郎は、岡山師範学校で勤務。 その後、天彩学舎と呼ばれる画塾を開業した。 大阪師範学校へ転任と同時に、天彩学舎を大阪市中央区糸屋町に移転し、現在の場所に移転。 天彩画塾と改称し、設備の整った洋館建てのアトリエを構え、広瀬勝平や林唯一、高岡徳太郎、靉光、池田遥邨らを輩出。 また、大阪で初めてとなる洋画展覧会を山内愚僊とともに開催し、関西美術会を結成。 山内愚僊も大阪洋画界の先駆者として知られている。 大阪洋画会を結成した。
現在、松長大明神が鎮座する。 また、阿部寺跡推定地とされ、阿部氏の氏寺との説がある。 一族には、藤原鎌足らと大化の改新を推進した、左大臣阿部内麻呂。 かつてこの付近から白鳳、奈良時代の重弧文軒瓦や鬼瓦が出土している。 現在の地名、阿倍野の由来にも阿部氏による説がある。
小説家の織田作之助。 1913年、大阪市天王寺区上汐町で仕出屋「魚春」の織田鶴吉・たかゑの長男として生まれた。 宮田一枝と出会い、作家活動を開始。 学生時代、恋人の宮田一枝を連れて料亭「松虫花壇」に訪れた。 作之助と一枝は後に、阿倍野筋2丁目にあった料亭「千とせ」で結婚式をあげた。 処女作「雨」を発表し、武田麟太郎の注目を受ける。 大阪府堺市へ転居し、笹田和子と再婚。 現在、大阪文学振興会により、織田作之助氏の名前を冠した織田作之助賞が主催されている。 代表作は「夫婦善哉」。 法善寺横丁は、織田作之助ゆかりの地として知られている。
1906年、長崎県諫早市生まれ。 1943年、第三詩集「春のいそぎ」が刊行され、「百千の」の詩が掲載された。 旧制佐賀高等学校(現在の佐賀大学)を経て京都帝国大学文学部国文科に在籍した後、大阪府立住吉中学校教諭となった。
頂上付近には、聖天山公園、聖天山奥之院、正圓寺正円寺、聖天山古墳がある。
兼好法師藁打石
この付近には吉田兼好の庵があったとの説がある。 吉田兼好とは、鎌倉時代末期・南北朝時代の官人・歌人・随筆家として知られている。 1284年、卜占を司り神祇官を出す神職の家柄で、卜部兼好(うらべのかねよし)として生まれた。 また、執事高師直に接近したとされ、「太平記」にその恋文を代筆したのだとか。 一時、山城国山科小野荘に住みながら、「徒然草」を執筆し、吉田兼好が俗称となった。
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通称、「天下茶屋の聖天さん」とも呼ばれている。 939年、光道和尚により般若山阿部寺の一坊として開基。 1688年、義道見明和尚が寺を移転し、海照山正圓寺と改称。 本尊は木彫の大聖歓喜双身天王で、これは日本最大を誇る。 鎮守の神を祭る奥之院があり、鎮守堂、寄松塚、石切社分祠などが祭られている。 聖天山の山頂には、正圓寺がある。 一方で、聖天山は山ではなく、聖天山古墳と呼ばれる古墳との説もある。
明治時代は、田畑や原野が広がる緑豊かな地域であった。 当時の天王寺警察署長の発案により、1892年に橋本尚四郎・久五郎兄弟によって、付近を開発し、行楽地を開園させた。 かつて、鯨池があり、周辺には料亭や茶室を配した公園であったとか。 また、現在の橋本町という地名は、私財を投じて開発を行った橋本尚四郎・久五郎兄弟に由来する。 1903年に開催された第5回内国勧業博覧会では多くの人が押し寄せ、夏目漱石も訪れたとか。
主祭神は、北畠顕家、北畠親房である。 1882年、阿部野神社として創立した。 1890年、社殿が竣工。 鎮座祭が斎行され、別格官幣社に列せられた。
北畠 顕家
1318年、南北朝時代の公家・武将として生まれた。 准大臣として知られる北畠親房の長男。 従二位・権中納言。贈従一位・左大臣。 北畠親房は、後醍醐天皇に近侍し「三房」の1人として、建武の新政の補佐を行った。 豊島河原合戦、薊山合戦、美濃国青野原の戦いなどに参戦。 顕家が陸奥国府を築いた霊山には霊山神社が建てられ、顕家親子らを祀っている。 また、武田信玄よりも先に風林火山の旗印を用いていたとされる。
北畠公園
市民の憩いの場となっている。 また、公園内には、南北朝時代の南朝方の北畠顕家の墓がある。 北畠という地名は、北畠氏に由来する。