せやせや!関西が好っきゃねん
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あべので見つけたサッちゃん

あべので見つけたサッちゃん

まいど! 陰陽師・安倍晴明はんは大阪市生まれっちゅうことを皆さんはご存知でっしゃろか? 京都にも安倍晴明にまつわる神社が鎮座しており、全国的にも有名やねんけど、実は大阪市阿倍野区にも産湯に使用されたとされる井戸が安倍晴明神社には残ってまんねん。 境内には安倍晴明の銅像が建立され、隠れたスポットとして人気を集めてはりまんな。 付近では、なにわの伝統野菜の一つとして知られる天王寺蕪の栽培地として古くから有名で、石碑も建立されてまんねん。 また、阿倍野区は吉田兼好のゆかりの地としても知られ、伝説ともなってはりまんな。 ほんで、大阪っちゅうたら長屋でんな。 最近では都市開発が進んで、コンクリートやマンションが目立ってまんねやけど、阿倍野区の一角では古い町屋を残そうと寺西家長屋が奮闘してはりまんな。 飲食店として営業もし、気軽に立ち寄ることができまっせ! 最後に、「サッちゃんはね サチコっていうんだ ほんとはね」ではじまる童謡「サッちゃん」も実は大阪生まれ。 幼稚園前には石碑が建立されてはりまんねん。 日本最大のあべのハルカスだけやない阿倍野区の魅力を案内していきまっせ!

シャープ(株) 本社
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シャープ(株) 本社

1893年、シャープ創業者の早川徳次氏は、東京府(東京都)東京市日本橋区生まれ。 ベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」、水道自在器(蛇口)を発明。 早川繰出鉛筆(後のシャープペンシル)の内部部品製造を行い、特許を申請。 関東大震災が発生した為、大阪に移住。 当地で早川金属工業研究所を設立し、国産第1号機となる鉱石ラジオ受信機の開発に成功。 シャープペンシルが由来となり、シャープに社名変更。 早川氏は、日本のエジソンとも言われ、「まねされる商品をつくれ」が口癖となった。 国内初のテレビ、電子レンジの国内生産、世界初のオールトランジスタ方式の電子式卓上計算機などを発明。

王子商店街 振興組合
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王子商店街 振興組合

他、むつみ商店街、北畠公園本通商店街などと接続する。 主に、飲食店や居酒屋、雑貨店などが立ち並ぶ。

馬車鉄道跡
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馬車鉄道跡

大阪馬車鉄道株式会社が設立された。 軌道上の客車を馬に牽かせた鉄道で、天王寺西門前から東天下茶屋までが開通した。 1908年、馬車鉄道は廃止された。 1910年、電化により、天王寺西門前から住吉前までの営業を開始して以後、現在は阪堺電気軌道上町線として活躍する。

梶井基次郎旧居跡
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梶井基次郎旧居跡

1901年、大阪市西区生まれの小説家。 父の宗太郎は貿易会社の運搬部勤務。 1909年、父の転勤に伴い、東京市にある芝区白金頌栄尋常小学校へ転入した。 1911年、父の転勤に伴い、三重県志摩郡にある鳥羽尋常高等小学校へ転入した。 1914年、父の転勤に伴い、大阪にある旧制北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)へ転入した。 その後、中退し、メリヤス問屋の丁稚となるが、同校へ再入学する。 京都市上京区に住み、第三高等学校理科甲類に入学する。 1924年、東京帝国大学文学部英文科に進学。

播磨塚・小町塚
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播磨塚・小町塚

別々の場所に塚は付近の道路整備により現在地に移転。 南北朝時代、住吉の合戦で南朝の忠臣楠正行と戦って敗れた播磨の太守である赤松円心の子貞範が、戦死した将兵の遺骨を納めて播磨塚を築いた。 小町塚は、小野小町の塚であるとの説がある。

松崎町公園
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松崎町公園

松原三五郎が中心となって天彩画塾が開設。 大阪で初めてとなる本格的な油彩画を主とした洋画塾である。 東京で油彩画を学んだ松原三五郎は、岡山師範学校で勤務。 その後、天彩学舎と呼ばれる画塾を開業した。 大阪師範学校へ転任と同時に、天彩学舎を大阪市中央区糸屋町に移転し、現在の場所に移転。 天彩画塾と改称し、設備の整った洋館建てのアトリエを構え、広瀬勝平や林唯一、高岡徳太郎、靉光、池田遥邨らを輩出。 また、大阪で初めてとなる洋画展覧会を山内愚僊とともに開催し、関西美術会を結成。 山内愚僊も大阪洋画界の先駆者として知られている。 大阪洋画会を結成した。

松長大明神
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松長大明神

現在、松長大明神が鎮座する。 また、阿部寺跡推定地とされ、阿部氏の氏寺との説がある。 一族には、藤原鎌足らと大化の改新を推進した、左大臣阿部内麻呂。 かつてこの付近から白鳳、奈良時代の重弧文軒瓦や鬼瓦が出土している。 現在の地名、阿倍野の由来にも阿部氏による説がある。

織田作之助来遊の地
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織田作之助来遊の地

小説家の織田作之助。 1913年、大阪市天王寺区上汐町で仕出屋「魚春」の織田鶴吉・たかゑの長男として生まれた。 宮田一枝と出会い、作家活動を開始。 学生時代、恋人の宮田一枝を連れて料亭「松虫花壇」に訪れた。 作之助と一枝は後に、阿倍野筋2丁目にあった料亭「千とせ」で結婚式をあげた。 処女作「雨」を発表し、武田麟太郎の注目を受ける。 大阪府堺市へ転居し、笹田和子と再婚。 現在、大阪文学振興会により、織田作之助氏の名前を冠した織田作之助賞が主催されている。 代表作は「夫婦善哉」。 法善寺横丁は、織田作之助ゆかりの地として知られている。

伊藤静雄 文学碑
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伊藤静雄 文学碑

1906年、長崎県諫早市生まれ。 1943年、第三詩集「春のいそぎ」が刊行され、「百千の」の詩が掲載された。 旧制佐賀高等学校(現在の佐賀大学)を経て京都帝国大学文学部国文科に在籍した後、大阪府立住吉中学校教諭となった。

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