通天閣周辺エリアのおすすめ史跡情報が掲載されているページです。
野田城趾の碑
大阪市福島区玉川付近にあったとされる戦国時代の城郭。 1531年、中嶋の戦い(細川高国と三好元長の戦い)が勃発。 細川高国と関係の深い浦上村宗が築城した。 細川氏綱とは、舎利寺の戦い(細川晴元や三好長慶の戦い)などで活躍した武将。 1570年、三好三人衆は、野田城を増築、籠城した。 1576年、野田城は、織田信長によって落城した。
逆櫓の松跡
かつて、この付近にあったとされる老松。 源平合戦において、この老松の下で源義経と梶原景時が論争した事で知られる。 1185年、源頼朝から平家追討の命を受けた源義経が摂津国の港・渡邊津に軍を集めた。 源義経と梶原景時がこの地で出会う。 暴風雨のため、景時は出航を見合わせようとするが、義経は出航する。 義経勢は阿波国勝浦に到着し、平家の軍が居た屋島を急襲した。 現在、逆櫓の松址碑が建てられている。
小西来山十萬堂跡
1654年、俳人として知られる来山は、平野町の薬種問屋に生まれた。 その後、西山宗因に師事したが、芭蕉に近い境地をひらき、十萬堂に住み多くの名句を残した。 1945年、この建物は戦災で焼失した。
大阪城 青屋門
#史跡
刻印石広場
#公園 #城 #史跡
大阪城 極楽橋
#史跡 #橋
大坂城 六番櫓
#城 #史跡
大村益次郎先生寓地址
儒学、蘭学、医学、西洋兵隊学に通じ、幕末から明治維新にかけて日本の近代化に非凡な才能を発揮した。 長州藩(現・山口県)の医師だったという。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。 1849年から大阪市西区にある倉敷屋作衛門の座敷に住みながら緒方洪庵の適塾で医学を学び、後に明治新政府の兵部大輔(兵部省次官)となり、近代国家の制定に貢献した。
宮武外骨ゆかりの地碑
明治から昭和期に活躍したジャーナリスト。 新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家でもある。幼名は亀四郎。 1867年、香川県綾南町小野に生まれた。 "外骨"と言う名で、亀四郎の亀は"外骨内肉"の動物であることにちなみ、自ら正式に改名したもの。 晩年の外骨と生活をともにし、外骨の伝記や復刻本を多数刊行、近代史関係の著作もある吉野孝雄は甥。
住吉神宮寺跡
#史跡 #宗教施設
上方落語寄席発祥の地
かつて、ここは、上方落語寄席の発祥地として知られ、人気を集めている。 江戸時代末期、初代桂文治によって、坐摩神社の境内で小屋を開設し、本格的に活動し始めたことによる。
大阪城 一番櫓
懐徳堂旧阯碑
1724年、中井甃庵(しゅうあん)らによって創設された学問所である。 創設から廃止されるまでの145年間、多くの人材を育てたと言う。 現在、大阪大学では、年に2回、懐徳堂講座が行われている。
残念石
野田城跡
小説「泥の河」舞台の地碑
中天游邸跡
江戸時代に活躍した日本の蘭方医、蘭学者である中 天游。 1783年、京都府・丹後に生まれた。 江戸で、大槻玄沢の私塾・芝蘭堂に入門。 のちに稲村三伯より蘭学や蘭方医学を学んだ。 大坂に移り、靭本町で町医者として開業した。 その後、江戸堀に移転した。 弟子の一人に、緒方洪庵がいる。
大阪商業講習所跡
大阪城 太鼓櫓跡
坂上廣野麿屋敷跡
大阪
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