日比谷駅周辺のおすすめ史跡情報が掲載されているページです。
日比谷濠
百人番所
電話交換創始之地
1890年、電話事業に関する最初の法令「電話交換規則」が公布され、東京と横浜に電話交換局が設置。 東京市内及び横浜と東京間で電話交換が開始された。 当初、横浜電話交換局は4名が電話交換に対応。 東京市の加入者は155人、横浜市の加入者は42人で、電話所(公衆電話)数16。 市内通話の料金は年間45円の定額制であったとか。
伝奏屋敷跡
伝奏屋敷は武家伝奏の宿舎として設置された屋敷のことで、勅使・院使など伝奏衆が宿泊した。 1636年、伝奏屋敷の隣には評定所の建物があり、江戸幕府の最高司法機関にあたる。 三奉行(勘定奉行、寺社奉行、町奉行)が裁定できないような重大事件を扱っていたとか。
銀座の象徴 柳並木の碑
明治時代、銀座の柳が植樹され、銀座の象徴となった。 昭和時代、三度の変遷を経て銀座通りの改修と共に姿を消した。 西銀座通りが東京都のシンボルロードとして改修、並木を柳に代えて銀座の象徴が復活した。
明治大学発祥の地
1691年、外濠川に面したこの付近は、肥前島原藩(現在の長崎県)などを治めた深溝松平家の上屋敷が置かれた。 明治時代、屋敷は貸し出され、民権結社による演説会などが盛んに催された。 1881年、法律家の岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操は、屋敷の一部を借り受け、明治大学の前身にあたる明治法律学校を開校。 1886年、神田区駿河台南甲賀町(現在の神田駿河台)に移転。 1995年、「明治大学発祥の地」碑が建立。
尾台榕堂之碑
尾台榕堂は将軍・徳川家茂の侍医も務めた幕末の名漢方医・ 1799年、信濃魚沼郡(現在の新潟県十日町市)出身。 16歳の頃、江戸に出て医師の尾台浅嶽に漢方を学んで師家を継ぎ、浅田宗伯と共に「江戸の二大名医」として称えられた。 大坂城で倒れた家茂を診察して評判を呼び、明治天皇の侍医も務めた。 診療を待つ患者を相手に診療所前には茶屋が出来たとも。 「浅田飴」の創業者・堀内伊三郎は浅田家の書生で水飴の処方を譲り受け、浅田飴を創業したとも。
銀座・築地・日本橋
千代田区
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