大手町駅(東京都)周辺のおすすめ文化スポット情報が掲載されているページです。
皇居
東京のシンボル皇居!! やはりパワースポット!行くと気持ちが洗われて、スッキリしますね💡
福徳神社(芽吹稲荷)
東京都中央区日本橋室町にある神社で、「福徳稲荷」、「芽吹稲荷」とも呼ばれています。
インターメディアテク(INTERMEDIATHEQUE)
雑誌で見かけて行ってみたかった博物館。KITTEの2階と3階にあります。 日本郵便株式会社と東京大学総合研究博物館が協働で運営をおこなう公共貢献施設。
皇居外苑
半蔵門から桜田門にかけてカモがたくさん見られます🦆
帝国劇場
帝国劇場 作品に、白煉瓦の三階建がゆらめえて近づいてた、と作品にはある。 ここで、清顕は、2人の王子に聡子を紹介している。 大正時代の写真をWikipediaから借用している。
日本銀行金融研究所貨幣博物館
1985年、日本銀行創立100周年を記念して日本銀行金融研究所内で開館。 田中啓文から寄贈された「銭幣館コレクション」をもとに、古代から現在に至るまでの「日本の貨幣史」、世界の貨幣・紙幣を紹介する「さまざまな貨幣」、「テーマ展示コーナー」から構成。 発掘された貨幣や軍票、記念硬貨などが展示され、1億円分の紙幣の重さを体験できるコーナーも。
二重橋
皇居といえば・・・のランドマーク。皇居の象徴ですね。
明治生命館
2022年秋には、ここに静嘉堂文庫美術館が移転予定!!!!!とても楽しみです!
江戸城跡
武蔵国豊嶋郡江戸にあった日本の城。 江城、千代田城とも呼ばれる。 麹町台地の東端に位置する江戸城は、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築城。 徳川氏によって改修され、日本最大の面積を誇る城郭となった。 徳川家康が江戸城に入城して以後、徳川家の居城となった。 江戸時代、江戸幕府が開幕し、幕府の政庁となった。 明治時代、首都機能は京都から大坂(大阪)へと遷都する案が大久保利通らによって浮上したが、前島密らが反対。 大坂は短期間、首都となるも、東京への遷都が確定。 以後、吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。 国の特別史跡に指定。
東京駅丸の内駅舎
赤レンガ造りのレトロな雰囲気が漂う東京駅・丸の内駅舎。 平成24年(2012)に復原され、国指定の重要文化財に登録された有名な駅舎なのですが、実はオランダの首都アムステルダムにも似た外観の駅舎が存在するんですよ🔍 確かに、ハウステンボスにそのまま移築されてもおかしくないような気もしなくはないです🤔 丸ビルの5階テラス(入場無料)に行くと、より広い視界で駅舎の全体像を望むことができますよ。
坂下門
現在も江戸城氏の名残らしく、多くの門が現存している。 その中でも、興味深いのは、坂下門。 1862年、老中・安藤信正が水戸浪士によって襲撃され負傷した「坂下門外の変」の現場となった。 明治時代以降、皇居の重要な入口のひとつとして使われ、宮内庁の出入口(通用門)として利用。 警備が厳重なため、立ち入り不可。
三井本館
設計はトローブリッジ・アンド・リヴィングストン(英語版)社(米国)、ワイスコッフ・アンド・ピックワース社。 1929年、地上7階、地下2階として竣工。 三井本館は三井財閥の本拠であり、現在は三井不動産が保有し、三越の前身にあたる越後屋の跡地。 團琢磨暗殺事件(血盟団事件)の現場にもなった。 1902年、旧三井本館が竣工するも1923年の関東大震災で被災。 1945年から2年間、連合国軍最高司令官総司令部が一部を接収。
渋沢栄一像
実業家、慈善家として活躍した渋沢栄一。 別名、日本資本主義の父。 1840年、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)生まれ。 渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営。 米、麦、野菜の生産も手がける豪農であったとか。 北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。 江戸時代、農民(名主身分)から武士(幕臣)に転身。 1866年、幕臣となりパリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟、徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得てフランスへと渡航、ヨーロッパ各国を訪問。 徳川慶喜は大政奉還、渋沢栄一は静岡で商法会所を設立。
大手町の森
2011年、みずほ銀行大手町本部ビル(旧富士銀行本店)大手町フィナンシャルセンターが解体。 2014年、地下の商業施設「オーテモリ(OOTEMORI)」が開業。 2016年、大手町タワーと大手町の森が第57回BCS賞を受賞。 ヒートアイランド現象の緩和を目的とした緑地。 千葉県君津市で育成された森が土壌ごと移植、コナラやケヤキなどの広葉樹、草本類が植えて生物多様性も。 2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件で犠牲となった慰霊碑が建立。 東京芸術大学美術学部教授を務めた山本正道により制作されたブロンズ像、ニューヨーク市消防本部から寄贈された世界貿易センタービルの鉄骨の一部が安置。
二の丸庭園
ちょうど菖蒲が見頃間近でした。2024.6.1撮影
鍛治橋跡
当地はかつて江戸城の外濠であった。 1629年、築造。 門に附属する鍛冶橋は現在の丸の内二、三丁目と中央区の八重洲六丁目を結んでいた。 名称は、外堀の門外の町名が南鍛冶町(現在の中央区八重洲二丁目・京橋二丁目)であったことに由来。 江戸時代、御用絵師の狩野探幽の屋敷があった。 門内には大名屋敷が立ち並び、幕末には、津山藩(岡山県)松平家、土佐藩(高知県)山内家が付近に上屋敷を設けていた。 1873年、鍛冶橋門は桝形石垣を残して撤去。 1876年、橋はアーチ橋として再建。 戦後、瓦礫処理で外堀が埋め立てられ、橋も姿を消した。
北町奉行所跡
江戸時代、江戸の町奉行は南側と北側の2カ所に設置され、江戸市中の行政・司法・警察など幅広い分野を担っていた。 1806年、北町奉行所は呉服橋御門内(現在の呉服橋交差点、東京駅日本橋口周辺)に位置。 屋敷の鬼門・艮(北東)の方角を護る呪術的な意味があるとも。
一石橋迷子しらせ石標
江戸時代、繁華街として発展し、迷い子が多く出た。 1857年、地元西河岸町の人々によって「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が南詰に建てられた。 しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪み。 使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。
歌川広重住居跡
歌川広重は江戸時代、浮世絵師として活躍した人物の一人。 1797年、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。 幼少期より初代歌川豊国に入門を考えていたが、歌川豊広に入門。 「東海道五十三次」を発表。 また短冊版の花鳥画・歴史画・張交絵・戯画・玩具絵、春画、美人画も手掛けた。 1860年頃、「江戸日本橋南之絵図」によると日本橋大鋸町(現在の京橋)に住居があり、西隣には狩野永悳の旧居も。 その後、常磐町に移転。 風景を描いた木版画で人気を集め、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えたとか。
道三橋跡
1590年、徳川家康の命によって江戸城へ物資を運ぶ船入り堀として、江戸城の和田倉門橋から平川(日本橋川)の河口の呉服橋門までを結ぶ道三堀として開削され、江戸湊まで続く運河となった。 江戸で初めて人工の水路として造られた堀。 南岸には幕府の侍医、曲直瀬家(2代目道三)の屋敷があったことから、道三堀と呼ばれた。 1909年、埋め立てられ、姿を消した。 かつて、道三橋、銭瓶橋などが架けられた。
銀座・築地・日本橋
千代田区
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