逗子・葉山・三浦・横須賀のおすすめスポット情報が掲載されているページです。
スーパー香取屋
世にも珍しいスーパーマーケットの奥の酒場。 レジで飲み物のチケットを購入して500円以上の惣菜を注文すれば利用ができる。
旧海軍下士官兵集会所跡
施設「EMクラブ」の跡地碑。 海軍工廠の前に位置していた。 前身は、海軍下士官兵集会所。 戦後、アメリカ軍に接収され、ジャズの発祥の地としても知られている。 現在、横須賀芸術劇場とホテルなどからなる複合文化施設となっている。
長瀬トンネル
西浦賀町にある古いトンネル。 かつて、ここに肝試しに来た若者達の一人に何かが憑りついた…という話が伝えられています。
〒238-0004 神奈川県横須賀市小川町27−1
三笠公園前の古着屋のすぐ横にはなんとも珍しい風船のお店がありました。 中には人気キャラクターの風船や誕生日バルーンなど、可愛いもので溢れていました!
〒238-0004 神奈川県横須賀市小川町27−24
ポートマーケットから三笠公園へ向かう途中にあったカフェにぶらりと立ち寄りました。 まだオープンしてから日が浅く店内は可愛らしい雰囲気でした。 お店の方は女性の方でお話ししましたがとても優しく話がついつい弾んでしまいました。
さざえ屋
三浦半島などその周辺ではマグロを中心に有名でお土産店などで販売されている。
水のトンネル
横須賀市浦賀地区にあった浦賀船渠は造船所として知られている。 通称、浦賀ドック。 1900年、操業を開始し、その工業用水の確保を目的に水のトンネルが整備された。 現在の二葉2丁目に位置していた溜池から工業用水が運び込まれ、当地は導水坑の出口にあたるとか。 工場では独のタービンが開発され、大量の水を必要とした。 工場では日本海軍の駆逐艦建造で知られ、太平洋戦争後も艦艇の建造が続けられた。 2003年、閉鎖された。
中島三郎助の墓
浦賀奉行所与力・中島三郎助親子が眠る。 中島三郎助は江戸幕府浦賀奉行所与力、蝦夷共和国箱館奉行並。 砲術、田付流、集最流、荻野流の免許、高島流の皆伝を受けた、俳諧や和歌を詠む。 1853年、米国マシュー・ペリー艦隊が浦賀沖に来航(黒船来航)した際、副奉行と称して通詞の堀達之助を連れて旗艦「サスケハナ」に乗船。 浦賀奉行・戸田氏栄ら重役に代わり、香山栄左衛門と共にアメリカ側使者の応対を務めた。 船体構造・搭載砲(ペクサン砲およびダールグレン砲)・蒸気機関を調査、密偵とも。 ペリー艦隊の帰国後、老中・阿部正弘に提出した意見書で軍艦の建造と蒸気船を含む艦隊の設置を主張。
洲崎町内会館
洲崎とは町名の一つで浦賀湾に張り出した洲の先頭部と言う地形に由来。 山の手には江戸時代、三浦按針(ウィリアム・アダムス)の屋敷があり、按針が勧請した社があった。 1556年、三浦半島が房州の里見軍に攻撃され、北条氏康が浦賀城を築城。 この城は、後北条氏時代の三浦半島水軍の根城であった。
日西墨比貿易の碑
1598年、徳川家康はスペイン領メキシコから新製錬技術を導入する為、スペイン領マニラからメキシコのアカプリコ港へ向かうスペイン商船「ガレオン船」を浦賀湊に寄港。 英人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)を顧問とし、江戸邸のほか三浦郡逸見村の采地と浦賀邸を与えた。 三浦按針はマニラにも渡海、浦賀貿易再開の為に尽力。 江戸・浦賀・静岡・伏見・大坂にはフランシスコ会修道院が創設、浦賀洲崎にはスペイン人を保護する高札が建立。 浦賀貿易を管轄したのは船奉行向井将監忠勝。
ノジマ 横須賀店
デジタル家電専門店ノジマを中心とするノジマモールにはレストランやスーパーマーケット、ドラッグストアなどが営業。 2014年、グランドオープン。 ノジマとは神奈川県横浜市に本社を置く家電量販店の一つで、1959年、野島電気工業社として創業。 3階駐車場の一角には展望室が設置され、コミュニティ活動の場として利用されている。
お弁当の日本フーズ|黒船弁当|わっぱめし|のりだんだん弁当|ロケ弁当|旅行弁当|仕出し弁当
弁当や総菜を販売する日本フーズ。 メニューはよこすか名物わっぱ飯黒船弁当、よこすか名物西海岸物語など。
勝海舟の断食修行の跡
勝海舟は江戸時代から明治時代にかけて活躍した武士(幕臣)、政治家。 山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。 海舟は号で、佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったもの。 通称、麟太郎。 諱は義邦、明治維新後、改名して安芳。 武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝安房に。 新潟出身で江戸に出て米山検校となる。 島田虎之助に入門し、剣術・禅を学んで直心影流剣術の免許皆伝となる。 家督を継ぎ、永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開塾。 安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。 1860年、咸臨丸で渡米、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。
〒238-0243 神奈川県三浦市三崎3丁目2−24
【ジャンル】 【三浦Cocoon特典】「チョコ盛り合わせ」プレゼント ※パンフレットやWEB画面を提示のうえ、「三浦Cocoonで見ました」とお伝えください。 【営業時間】 【電話番号】 【住所】三浦市三崎3-2-24 【アクセス】京急バス「三崎港」下車、徒歩1分
仏崎山観音寺跡
三浦半島の東端に位置し、東京湾(浦賀水道)に面する岬の一つに数えられる観音崎にある観音寺跡。 現在、神奈川県立観音崎公園の休憩所として開設。 かつて仏崎山観音寺が存在した。 741年、行基が当地の海蝕洞に住む大蛇を退治して十一面観音(船守観音)を祀ったと伝えられる。 江戸時代、観音堂など堂宇が創建され、仏崎山観音寺と称した。 1880年、観音寺は旧日本陸軍の砲台建造に伴って移転したが焼失。
三軒家公園
かつては三軒の家が存在したことから三軒家という地名の由来ともなったとか。 また、周辺は三浦半島の東端に位置し、東京湾(浦賀水道)に面する岬の一つに数えられる観音崎があり、三軒家砲台跡が残る。 1821年以後、浦賀奉行所によって管理。 1861年以後、江川太郎左衛門が引継ぐ。 1868年以降、海軍省から陸軍省へと引継ぐ。 1894年、着工。 1896年、完成。 1945年まで管理された。 観音崎一帯は明治時代、要塞となり、一般の人の立入りは禁止となった。 第一、第二、第三、第四、南門、大浦、三軒家各砲台などや、火薬庫などが築造。 三軒家砲台跡は別名、観音崎台場跡。
走水の山車
山鉾形式、総欅づくり。 高さ約4.6m、幅3.7m。 元々、屋根のは6尺(約1.8m)の日本武尊の人形があった。 全体に彫刻が施され、武州金沢の後藤忠造の刻銘がある。 山車は7月中旬の土・日曜に行われる本祭り(隔年)のときに曳かれるほか、走水南町町内会館で公開。 別名、南町の山車。
屯宮跡の碑
江戸時代、築地新町(住友重機械工業敷地内)にあった干鰯市場の一部が幕府軍艦のための石炭囲置場となった。 1875年水兵の基礎教育機関「浦賀水兵屯集所」が設置され、東海水兵分営、水兵練習所、浦賀屯営へと改称。 水兵の基礎訓練を担当した士官らは、病やその他の事情で海上勤務ができなくなった者が集まったため、屯営は生きた士官の捨てどころとも言われた。
大衆帰本塚の碑
1864年、板状節理が発達した箱根産の根府川石が使用された碑が建立。 この土地が開発される以前の様子と先人たちの思いなどが記されている。 浦賀奉行所の大工棟梁・川島平吉の発案により、奉行の大久保土佐守が賛同し、篆額は江戸時代に活躍した国学者の大畑春国が書き、碑文には浦賀奉行所与力の中島三郎助の文章と筆跡が刻まれている。 かつて付近には地蔵堂があり、堂守をしながらその生涯を閉じた江戸屋半五郎(僧・深本)。 「近世浦賀畸人伝」にも記載され、遊廓の主人から僧侶になった人物。
船番所跡
1720年、下田奉行所(静岡県下田市)から浦賀(神奈川県横須賀市)に移転。 業務は船の荷改め(検査)をはじめ、海難救助や地方役所としての役割を担った。 1800年代、日本近海に外国船が行き交うようになり、江戸を防備することを目的に設立。 1868年、約150年間、初代の堀隠岐守から土方出雲守まで53名が任務にあたった。 また当地には浦賀奉行所の出先機関で番所が設置。
鎌倉・江ノ島
横浜
神奈川
横浜中華街・元町・山下公園
よこはま動物園ズーラシア周辺エリア
新江ノ島水族館周辺エリア
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