せやせや!関西が好っきゃねん
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まいどまいど!
日本三大住吉の一つに数えられる住吉大社は大阪市住吉区に鎮座。
日本最大級の高灯篭が目印で、万葉集にも登場した住吉の歴史がここにあります。
一寸法師、一休ゆかりの住吉区をぶらぶら歩いてみませんか?

住之江味噌をお土産に。すみよっさん(住吉大社)へは、高灯籠が目印

住之江味噌をお土産に。すみよっさん(住吉大社)へは、高灯籠が目印

まいどまいど! 下関の住吉神社、博多の住吉神社と並ぶ日本三大住吉の一つに数えられる住吉大社は、大阪市住吉区に鎮座してはります。 ここには古代、住吉津と呼ばれる港がおまして、遣隋使や遣唐使がここから大陸に向けて出発するなど、海の神様としての信仰を集めてきました。 その他、大陸から奈良の都「平城京」へと続くシルクロード(絹の道)の海の玄関口としての機能も果たし、海外との交流も盛んであったんやで~。 住吉大社前の住吉公園では、住吉高灯篭と呼ばれる大きな灯篭がおまして、日本最古。 現在も常夜燈としての役割を果たし、住吉のシンボルとしての一面も持ってはりまんな。 また、付近には、細江川と呼ばれる小さな川が流れ、一寸法師ゆかりの地としての注目を集めてきました。 一寸法師は住吉大社の申し子とされ、伝説によるとお椀という小さな舟に乗って、箸を櫂にしつつ、住吉の地から京の都に向けて出発したという。 灯籠や一寸法師、住吉津などの歴史に浪漫を感じつつ、古の雰囲気漂う住吉界隈で街をぶらり。 住吉名物の住之江味噌、玉子コロッケを頬張りつつ、大阪の恩人として名高い五代友厚はんゆかりの地もめぐっていきまひょ!

上住吉西公園
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上住吉西公園

一休は、京都・奈良・堺などへ移り住んだ。 1471年、堺の豪商尾和宗臨(大徳寺伽藍再興に尽力した)が、ここに一庵を設けて一休を招請した。 一休はここを雲門庵と体し、弟子と共に移り住み、数年後、この空き地の一角に庵をつくり牀菜庵と号した。 1478年、京都田辺酬恩庵へと去った。 明治時代、門跡や竹やぶが残っていたという

すみよしの歴史
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すみよしの歴史

住吉は古代「すみのえ」と呼ばれ、万葉集にも登場している。 住吉区の歴史は古く、摂津国住吉郡と呼ばれていた。 住吉には古代港があり、名を住吉津(すみのえのつ)と名乗った。 大阪を代表する神社・住吉大社が鎮座し、大陸へ旅立った遣唐使、遣唐使との深い関わりを持っている。 また、大陸から奈良の都「平城京」へと続くシルクロードの海の玄関口としての役割を果たし、当時の日本の流行の最先端ともなっていた。 大陸から仏教が伝来した頃、天皇の行宮「住吉行宮」が造営された。 1878年、大阪府住吉郡が誕生し、安立町に郡役場が置かれた。 1896年、住吉郡は東成郡に併合。 1925年、大阪市に編入。

長居商店街振興組合
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長居商店街振興組合

飲食店や雑貨店などが立ち並ぶ。 1955年、長居商店街が設立されて以後、この地を拠点として活動するサッカーJリーグのセレッソ大阪との共同イベントも開催される。

神須牟地神社
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神須牟地神社

延喜式内の古社として知られ、三の宮とも称する。 御祭神は、神産霊大神、手力雄命、天児屋根命。 酒造や医薬の祖神としての信仰がある。 かつては、住吉大社の一部として現存していたが、その後、独立した。 徳川幕府は本社および多米神社の衰退に伴い、「神須牟地社」「多米社」と刻む石碑二基を双方の地に建立。 また、境内は、寺岡砦、寺岡城の跡地とされ、環濠集落から発展した砦と考えられる。 戦国時代、畠山、三好、細川、桃井各氏らの抗争が続く中で、寺岡付近でも合戦が勃発した。 1615年、大坂夏の陣では徳川方が当地に陣を構えた。 その後、大阪城の多くの浪人が寺岡に集まり土民となったとか。

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