住之江味噌をお土産に。すみよっさん(住吉大社)へは、高灯籠が目印
大阪住之江味噌をお土産に。すみよっさん(住吉大社)へは、高灯籠が目印
まいどまいど! 下関の住吉神社、博多の住吉神社と並ぶ日本三大住吉の一つに数えられる住吉大社は、大阪市住吉区に鎮座してはります。 ここには古代、住吉津と呼ばれる港がおまして、遣隋使や遣唐使がここから大陸に向けて出発するなど、海の神様としての信仰を集めてきました。 その他、大陸から奈良の都「平城京」へと続くシルクロード(絹の道)の海の玄関口としての機能も果たし、海外との交流も盛んであったんやで~。 住吉大社前の住吉公園では、住吉高灯篭と呼ばれる大きな灯篭がおまして、日本最古。 現在も常夜燈としての役割を果たし、住吉のシンボルとしての一面も持ってはりまんな。 また、付近には、細江川と呼ばれる小さな川が流れ、一寸法師ゆかりの地としての注目を集めてきました。 一寸法師は住吉大社の申し子とされ、伝説によるとお椀という小さな舟に乗って、箸を櫂にしつつ、住吉の地から京の都に向けて出発したという。 灯籠や一寸法師、住吉津などの歴史に浪漫を感じつつ、古の雰囲気漂う住吉界隈で街をぶらり。 住吉名物の住之江味噌、玉子コロッケを頬張りつつ、大阪の恩人として名高い五代友厚はんゆかりの地もめぐっていきまひょ!
住吉公園は、花壇や池、遊戯施設、コートなどがある。 また、周辺は住宅街となっているが、かつて、目前まで海が迫っていたと言い、住吉大社の境内の一部とされ、大社の馬場があった。 大阪海に面した住吉大社の社前の風景が、日本の美しい風景の典型とされる白砂青松の原景である「住吉模様」の地である。 鎌倉時代、元寇の時は、蒙古撃退のための住吉大社による住吉大神への「浜祈祷」は、住吉公園の前に広がっていた住吉の浜で行われた。
高灯篭
日本で初めて高灯篭が設置され、鎌倉時代から続く常夜灯の役目を果たしてきた。 かつて、住吉大社境内の神前浜に設置されていたが、1950年に台風の影響を受けて解体された。 1974年に現在地に移転し、復元された。 また、内部は一般公開され、最上階からは周辺を一望することができる。
住友灯篭の記
この地は、古くから長峡(ながお)と呼ばれていた。 大阪湾へと続くこの道は、汐掛道とも呼ばれている。 ここには、14基もの燈籠が並ぶ。 また、江戸時代から昭和初期にかけて奉献された住友家の燈籠は、今でも地域の方々によって、守られている。 江戸時代、大阪の地は、銅精錬・銅貿易の中心地として栄えていた。 主に、銅は伊予(愛媛県)の別子銅山から運ばれ、住友を中心とした工場で精錬された。
汐掛道
汐掛道と呼ばれる昔ながらの道がある。 この道は、大阪湾へと続く。 海辺への散策などに利用されている。 また、住吉大社へと続く表参道であった。
松尾芭蕉句碑
三重県伊賀市の出身で、江戸時代に活躍した俳諧師の一人、松尾芭蕉。 後に、大阪市中央区にある南御堂付近で、生涯を閉じることとなるが、かつて、住吉の地にも訪れていた。 この地で、感じたことを感じるままに書き記した句が、現在、句碑として保存されている。
祭神は、住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)、息長足姫命(神功皇后)。 通称、すみよしさん、すみよっさん、住吉大神宮。 住吉大社は、下関の住吉神社、博多の住吉神社と並ぶ日本三 大住吉の一つ。 200年、神功皇后が三韓征伐より大阪府堺市堺区にある七道の浜に帰還。 摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神、神功皇后を祀る。 また、外交や航海に関連した神社として信仰を集め、遣隋使、遣唐使の守護神でもあった。
一寸法師ゆかりの地
その他、昔話に登場する「一寸法師」のゆかりの地として知られ、室町時代から江戸時代にかけて描かれた物語集「御伽草子」にも登場する。 ここでは、子供に恵まれない老夫婦が住吉の神様に祈願すると子供が授かった。 しかし、その子供の身長は、1寸(約3.3cm)であった。 その後、お椀を舟にして、針の剣を腰に差し、箸を櫂にして住吉から京へと向かう。
反橋(太鼓橋)
住吉大社境内にある反橋は本殿へと続く参詣道の一つ。 反橋を渡ることは「お祓い」を意味し、広く信仰されている。 古くは神専用であったため、参拝客は渡ることが禁止され、別の橋である旧便宣橋を利用していたとか。 高さは約4.4m。
住吉神宮寺跡
平安時代、有名な神社の多くに設けられた神仏混淆の名残である。 758年、創建された。 今はない津守寺や荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていたと言う。 明治時代、神仏分離令により廃絶されたが、その一部であった西塔は徳島県切幡寺に売却し、移築した。 住吉踊りは、ここの僧徒により広められたものと言われている。
御文庫
1723年、土蔵造りの建物「御文庫」は、書物を収める目的で創建。 施主は、大坂を中心に京・江戸の書籍商ら。 大坂の書籍商は排他的同業組合である株仲間の結成を公許されている。 これを機に仲間の店が上梓した書籍の成功を祈念して住吉神前に奉納した。 それ以降、1873年の株仲間廃止まで奉納された書物は膨大な数に上る。 和書漢籍・洋装本を併せると一万点以上、数万冊に及び、研究者も注目する貴重書も多いとか。
住吉のいわれとまちなみ
この界隈には後村上天皇による住吉行宮があったとされ、日本の中心として栄えていたと言う。 住吉区には、これらの歴史が詰まった場所として知られ、この案内板には、その歴史の一部が紹介されている。
誕生石
源頼朝の寵愛を受けた丹後局は、当地で出産した場所と伝わる。 その時に生まれたのは、薩摩藩「島津氏」の始祖・島津忠久公。 丹後局は源頼朝の寵愛を受けて懐妊したが、北条政子により捕えられ殺害されるところを家臣の本田次郎親経によって難を逃れ、住吉界隈にに至った。 日没後、、雷雨に遭い前後不覚となったが、不思議なことに数多の狐火が灯り、局らを住吉の松原に導き、社頭に至った時には局が産気づいた。
誕生石
本田次郎が住吉明神に祈るなか局は傍らの大石を抱いて男児を出産した。これを知った源頼朝は本田次郎を賞し、若君に成長した男児は後に薩摩・大隅二か国をあてられた。 これが島津氏初代・島津三郎忠久公である。 この故事により、住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ「誕生石」の聖地に垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守とする信仰が続いている。
万葉集
古くから住吉の地は港「住吉津」を抱え、国際的な貿易が盛んであった。 シルクロード(絹の道)の海の玄関口として。 また、海外へと派遣された遣隋使、遣唐使は当地から出向したとされ、さらには、昔話に登場する一寸法師ゆかりの地として知られている。 かつては住吉大社のすぐ近くまで海が迫っていたといい、景勝地であった。 古くから海の神様として信仰を集め、当地では歌が数多く詠まれ、万葉集にも登場する。
カモが生息
住吉大社境内はカモが散歩する姿を楽しむことができる。
高蔵
1607年、第一本宮の東側には、校倉造の高床式倉庫である北高蔵と南高蔵の2蔵が建立。 上部は寄棟造、屋根は本瓦葺。 釘を一切、使用していないため、「釘無宝庫」とも称される。 かつては神宝が収められていたが、住吉文華館に移され、現在は祭具収蔵庫となっている。
社殿
住吉大社社殿では、古くから伊勢神宮(三重県伊勢市)、香取神宮(千葉県香取市)、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と並んで、式年遷宮(式年造替)の制があり、765年以来、20年ごとに社殿全てを造替。 1576年、石山合戦で社殿は焼失。 1606年、豊臣秀頼が住吉社造営を命じた。 反橋石桁、南門、東西楽所、石舞台が当時のまま現存する。 また、本殿は江戸時代に造営。 様式は、「住吉造」。
大海神社
住吉大社の境内摂社である。 祭神は、豊玉彦命・豊玉姫命。 本殿脇の「玉の井」という井戸の底には、海幸山幸神話に登場する潮満珠があるという伝承がある。 また、重要文化財に指定された。
すみよし博覧会
まち全体を博覧会の会場として、住吉大社や手塚山古墳など点在する店や史跡をパビリオンとして紹介。 すみ博とも呼ばれ、歴史ある住吉大社などがある一方、手塚山は高級住宅地。 この地で洗練された雑貨店やレストランなどが集積。 地元に住んでいる人にとても人気ある飲食店を厳選して紹介。 最終日には、音楽や落語のイベントが行われ、住吉大社に伝わる住吉踊りの保存会や、フラメンコダンサー、ジャズバンドが出演。
お好み焼き、もんじゃ焼きなどの鉄板焼き専門店。
とん平焼き
お好み焼きや焼きそば、もんじゃ焼き、とん平焼きなどが美味しいと評判の老舗。
焼きそば
お好み焼きや焼きそば、もんじゃ焼き、とん平焼きなどが美味しいと評判の老舗。
古々路焼き
特に注目を集めているのは、熱々の鉄板の上に踊る究極のモダン焼きと言われる古々路焼き。 古々路焼きとは塩焼きそばと沖縄豚ロースとを豪快に玉子で包みこんだもの。
古々路焼き
割ってみると、一口ぐらいの大きな沖縄豚ロースと塩焼きそばで大きなボリュームを作り、相性も抜群。
祭神は、少彦名命。 通称、「奥の天神」や「住吉の淡島明神」と呼ばれている。 式内社で、住吉大社の摂社となっていたが、明治時代に独立し、旧社格は郷社。 また、大阪市西成区に、当社より少彦名命の分霊を勧請した生根神社がある。 社伝によれば、住吉大社の鎮座以前よりこの地に鎮座していると言う。 淀殿が当社を崇敬し、現存する本殿・拝殿を造営した。 毎年、旧暦3月3日は、淡島祭が開催されている。
看板には、「(飛鳥の小径)あすかのこみち」と題し、当時の面影が描かれている。 また、住吉大社を中心とした詳細が書かれている。
住吉大社の裏(東側)に位置する住之江味噌池田屋本舗さん。 古くから栄えてきた熊野古道沿いに立つ池田屋本舗は今も手作り。 赤味噌をベースに多くの種類を取り揃えている。 1600年ころに建てられた建屋は、住吉最古の有形文化財。 400年以上にもわたって愛されてきた老舗の味をぜひ、お土産に!
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日本三大住吉の一つに数えられえる住吉大社付近には、多くの案内板が展示されている。 この付近は、戦火を免れた昔ながらの家屋が多く、昭和前期と現在が混ざり合った雰囲気が面白い。
住吉大社周辺のまちなみ
かつてこの場所は、一寸法師の旅立った場所として知られ、多くの人に夢と浪漫を与えている。 また、シルクロードの海の玄関口として栄えたと同時に、遣隋使や遣唐使も海の安全を願って、訪れたとも言われている。
真言宗の寺院。 1700年代、現在の本堂が創建された。 1800年代、現在地に移転。 本尊に祈願した楠木正成のゆかりのお寺として知られている。 また、四条畷の戦いに赴く際、楠木正行は、この地にある本尊に戦勝祈願したという。
主に、飲食店などが立ち並ぶ。 ショップ南海は地上1階に設けられ、2階は南海電車が走る。
現在も住吉の街では、昔ながらの原型をとどめた阪堺電気軌道の路面電車が走っている。 「ちんちん」と音を鳴らして走っていくので、「ちんちん電車」と呼ばれ、親しまれている。 始点は、日本最大の高さを誇る阿倍野ハルカス前の「天王寺駅前」または「えべっさん」で親しまれる浪速区の今宮戎前神社付近の「恵比須町」から、堺市の「浜寺公園」までを走り抜ける。 ここは、住吉から住吉公園までの区間を結ぶ終点の停留場。
一休は、京都・奈良・堺などへ移り住んだ。 1471年、堺の豪商尾和宗臨(大徳寺伽藍再興に尽力した)が、ここに一庵を設けて一休を招請した。 一休はここを雲門庵と体し、弟子と共に移り住み、数年後、この空き地の一角に庵をつくり牀菜庵と号した。 1478年、京都田辺酬恩庵へと去った。 明治時代、門跡や竹やぶが残っていたという
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祭神は、市杵島姫命。 住吉大社の弁天さんとして親しまれ、初辰まいりをはじめ、全国から多くの信仰を集めている。 初辰とは、毎月最初の辰の日のことをいい、この日に参拝すれば、より一層の力を与え、守り助けてもらえるという。 また、4年を一区切りに、48回参拝すれば、満願成就となり、これを、四十八辰(始終発達するという意味)という。 4年間月参りを続けられてきたことは、それだけ無事発達していることでもある。 浅沢社は、初辰まいり3番参りで、「芸事や美容の願い」として信仰を集めている。 特に女性の守護神として知られ、住吉大社参拝の際、女性は必ずお参りするのが習わしであるとか。
住吉は古代「すみのえ」と呼ばれ、万葉集にも登場している。 住吉区の歴史は古く、摂津国住吉郡と呼ばれていた。 住吉には古代港があり、名を住吉津(すみのえのつ)と名乗った。 大阪を代表する神社・住吉大社が鎮座し、大陸へ旅立った遣唐使、遣唐使との深い関わりを持っている。 また、大陸から奈良の都「平城京」へと続くシルクロードの海の玄関口としての役割を果たし、当時の日本の流行の最先端ともなっていた。 大陸から仏教が伝来した頃、天皇の行宮「住吉行宮」が造営された。 1878年、大阪府住吉郡が誕生し、安立町に郡役場が置かれた。 1896年、住吉郡は東成郡に併合。 1925年、大阪市に編入。
住吉の名物として人気の玉子コロッケ。 市販のコロッケとは比べもんにならへんほど、ボリューム満点の大きさで、割って中を見ると、ふわふわとした玉子からアッツアツの湯気。 そして、玉子のいい香りが漂ってくる。
コルクドゥーフ
この玉子コロッケは洋食やろくさんで楽しむことができる。 通常はレストランで味わえる玉子コロッケやけど、テイクアウト専門のお店もあり、そこでも買うことができるねん。 これ、買うしか、あらへんでしょ~♪ でも、この玉子コロッケ。 正式名称は「コルクドゥーフ」と言うらしい。
本来は、明治時代まで「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる二つの古墳があった。 この地に館を持っていた古代豪族の大伴氏の大伴金村とその子の墓とされていた。 大帝塚は現在、中学校の敷地となっている。 小帝塚は古墳として現存している。
1909年、2代目阿部喜兵衛が摂津酒造合資会社を設立。 明治時代、岩井喜一郎がアルコール連続蒸留装置を考案。 岩井式アルコール連続蒸留装置としての地位を確立した。 大正時代、国内三大アルコール製造業者となった。 1918年、本格的なウイスキー製造技術を導入することを目的に竹鶴政孝をスコットランドに留学させたことが、国産ウイスキー誕生につながったとされる。 後に、宝酒造(現在の宝ホールディングス)と合併し、同社の大阪工場となったが廃止された。
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公園内には、万代池がある。 一説によれば、上町台地の浸食した谷をせき止めて作られたといわれている。 また、「聖徳太子が曼陀羅経をあげて、池に棲む魔物を鎮めた」という説もある。 池周辺には、サクラの木が植えられ、春になると見ごろを迎える。
住吉大社の歴代宮司の津守氏の住之江殿の中におかれた南朝の後村上天皇の御座所である。 1352年、1360年代に崩御するまでの間、行宮とされた。 1360年、正印殿は津守国基によって邸宅内に創建された。 後村上天皇が滞在した時には津守国夏、行宮とされた時には国夏の子、津守国量の邸宅であったという。 南北朝時代、住吉大社は宮司の津守氏が南朝方であった。 1938年、大阪府史跡に指定。 1939年、国の史跡に指定。
飲食店や雑貨店などが立ち並ぶ。 1955年、長居商店街が設立されて以後、この地を拠点として活動するサッカーJリーグのセレッソ大阪との共同イベントも開催される。
長居陸上競技場や長居植物園などがある長居公園からも近い場所にある長居商店街の一角にあるお好み焼き・たこ焼きの「じゅうじゅう」。
モダンバーガー
お好み焼きと焼きそばでハンバーグを挟んだ長居の名物。
延喜式内の古社として知られ、三の宮とも称する。 御祭神は、神産霊大神、手力雄命、天児屋根命。 酒造や医薬の祖神としての信仰がある。 かつては、住吉大社の一部として現存していたが、その後、独立した。 徳川幕府は本社および多米神社の衰退に伴い、「神須牟地社」「多米社」と刻む石碑二基を双方の地に建立。 また、境内は、寺岡砦、寺岡城の跡地とされ、環濠集落から発展した砦と考えられる。 戦国時代、畠山、三好、細川、桃井各氏らの抗争が続く中で、寺岡付近でも合戦が勃発した。 1615年、大坂夏の陣では徳川方が当地に陣を構えた。 その後、大阪城の多くの浪人が寺岡に集まり土民となったとか。
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