東京・町田の原町田を散策
まいどまいど! 東京都内では東京23区、八王子市に次いで3番目に人口が多い町田市。 東日本旅客鉄道横浜線と小田急電鉄小田原線とが交差する町田駅周辺は商業地・繁華街としての一面を持ち、百貨店や複合商業施設が乱立する一方、昔ながらの雰囲気漂う商店街もあり、今と昔が入り混じってまんねん。 また、そんな華やかな街並みが目立つ景色に今も昔も変わらぬ姿でひっそりと佇む神社、仏閣寺院。 一部、七福神としての町おこしも活発なため、七福神巡りの人の姿も。 そんな町田のはじまりは安土桃山時代にまでさかのぼる。 原町田商店街では「二・六の市」が開かれ、炭や薪、蚕糸、畑作物、衣料、農具などが扱われた。 明治時代、八王子と横浜港とを結ぶ「絹の道」の中継地点にあたる原町田では繭や生糸の運搬が盛んになった。 あれ?こんなところにも・・・。 町田駅前の商業地・繁華街から外れると住宅街が広がり、その中に縄文時代の集落跡が見られた。 敷石住居跡、稲荷山遺跡は牢場遺跡に隣接した配石遺構であるといい、貴重な遺跡であることから保存、展示されてはりまんな。
原町田商店街発祥の地
安土桃山時代、毎月2のつく日に立つ市「二の市」が始まる。 江戸時代、「二・六の市」が開かれ、炭や薪、蚕糸、畑作物、衣料、農具などが扱われた。 明治時代、八王子と横浜港とを結ぶ「絹の道」の中継地点にあたる原町田では繭や生糸の運搬が盛んになった。 当時の運搬は馬や荷車が使用され、横浜で生糸を降ろした帰りには乾物など保存できる海産物や肥料(干鰯)、舶来品などを仕入れた。 「二・六の市」では横浜で仕入れた商品も販売され、賑わった。 1908年、横浜鉄道(東日本旅客鉄道横浜線の前身)が開通し、乾物・呉服・洋品・道具などの店が開業後、商業地へと発展。 現在も明治時代から大正時代にかけて創業した店が点在。
高ヶ坂石器時代遺跡(牢場遺跡・ 稲荷山遺跡)
高ヶ坂石器時代遺跡は牢場、稲荷山、八幡平遺跡の3地点で構成された縄文時代の集落跡。 1925年、畑のゴボウが曲がって成長していることをきっかけに発見。
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