関西が好っきゃねん
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門前仲町で見つけた日本中を歩いた伊能忠敬と江戸の相撲

門前仲町で見つけた日本中を歩いた伊能忠敬と江戸の相撲

まいどまいど! かつては材木の町としての賑わいを見せた木場界隈。 新木場に移転するまでは材木の中心地として発展してきたとか。 都市開発前までは付近に海がせまり、自然豊かな環境に恵まれ、貝を使用した漁師飯が誕生。 現在もアサリと一緒に調理した「深川めし」が注目を集め、地元を代表するグルメの一つとなってまんねん。 せやさかい、「深川めし」と看板を掲げた飲食店も多数。 付近には江戸最大の八幡宮として知られる富岡八幡宮が鎮座し、江戸時代には深川の八幡様とも呼ばれた。 ここでは大相撲の源流となる江戸の勧進相撲発祥地として知られ、境内にはぎょうさんの石碑。 最近も戦勝祈願に訪れる力士もぎょうさんいたはんねやて。 その他、江戸八幡祭が人気で水をかける風習が今も続き、江戸最大の総則と注目を集める神輿の派手さは圧巻。 周辺には歴史的も深い深川公園が整備され、周辺住民の憩いの場。 隣接する深川不動堂・不動尊は千葉県成田市にある成田山新勝寺と深い関わりも。 それだけでなく付近にはかつて伊能忠敬も住んでいたといい、住居跡。 富岡八幡宮を参拝後に全国へと足を運んで測量をしたことから境内には伊能忠敬の像も建立。

木場の角乗
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木場の角乗

江戸時代、材木商は日本橋付近に集中し、材木河岸を形成。 1657年、明暦の大火により幕府は寺社仏閣や大名屋敷等を移転させ、江戸の町を整備。 材木河岸は墨田川の対岸に位置する深川に移転。 明治時代、周辺の埋め立てが進み、木場は内陸となった。 1969年、沖合の埋立地に貯木場を設置して新木場となったことにより、従来の貯木場は埋め立てられ、木場公園として整備。 毎年10月に開催される江東区民祭りで木場の伝統芸「木場の角乗」が行われ、見物できる。

木場木遣之碑
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木場木遣之碑

「木場の木遣り」の発祥は古く、1600年代には存在したとか。 当時、幕府のお船手の指図で、伊勢神宮の改築用材を五十鈴川より木遣りの掛け声で水揚げ。 元来、神社仏閣の鳥居や大柄な用材を納める場合には木場木遣り特有の「納め木遣り」が用いられた。 武家屋敷が並んでいた両国の七つ谷の倉の間部河岸で3代将軍家光公に筏の小流し(さながし、筏組)、角乗り、木遣りを披露。 以後、年中行事となった。 この時、言葉「川並み」が発祥したとも。 1979年、米国グラント前大統領の来日の際、木遣りは角乗りと共に上野の不忍池で天覧の栄に浴している。

富岡宮司寿像
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富岡宮司寿像

富岡盛彦氏は1892年、福岡県築上郡八津田村東八田生まれ。 日本の神職。元富岡八幡宮宮司として知られている。 川面凡児に富岡八幡宮の祭祀継承の推挙を受けて富岡宣永第17代宮司の養子になる。 鹿島神宮宮司となって以降、岳父・宣永の後継で富岡八幡宮宮司となる。 1959年、神社本庁事務総長に就任し神道復興に尽力、國學院大学の理事長も務めた。 富岡八幡宮初代・長盛は住職で、菅原道真の子孫とも。

横綱力士碑
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横綱力士碑

歴代の横綱力士と強豪大関雷電爲右エ門を顕彰。 1900年、12代横綱陣幕久五郎が発起人となって完成。 正面には宮小路康文の揮毫で碑銘、裏面に初代明石志賀之助以降の横綱力士、「無類力士」として雷電の名が並ぶ。 綾川五郎次(初代)を2代目、丸山権太左衛門を3代目とする一般的な歴代横綱表は、この碑に基づく。 新横綱誕生の刻名式は、太平洋戦争中に一時中断、40代東富士欽壹の昇進時に復活するも一時中断。 1998年、66代若乃花勝(3代)の昇進時に復活。 以降、境内で横綱土俵入りを行ってから刻名奉告祭を行うことが恒例となった。

三十三間堂跡
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三十三間堂跡

江戸時代、富岡八幡宮の東側にあった仏堂。 本尊は千手観音。 1642年、京都府京都市東山区にある三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行を受け、弓師備後は幕府より浅草の土地を拝領、京都の三十三間堂を模した堂を建立したのに始まる。 落成では将軍徳川家光の命により旗本吉田久馬助重信(日置流印西派吉田重氏の嫡子)が射初め(いぞめ)を行った。 1698年、勅額火事により焼失。 1701年、再建。 1872年、江戸三十三間堂は廃されて堂宇は破却。 京都の通し矢同様、距離(全堂・半堂など)、時間(一昼夜・日中)、矢数(無制限・千射・百射)の異なる種目があり流行。 記録達成者は「江戸一」を称した。

八幡橋(旧弾正橋)
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八幡橋(旧弾正橋)

八幡堀遊歩道に架かる人道橋。 名称は付近に鎮座する富岡八幡宮に因む。 別名、旧弾正橋、元弾正橋 鉄を主材料とする日本最古の鉄橋。 国の重要文化財に指定。 日本で初めてとなる米国土木学会「土木学会栄誉賞」が贈られた。 構造形式は、ボウストリングトラス橋。 橋長は15.76m。 幅員は2.0m。 ピンの接合部には菊の紋形の花弁装飾。 1878年、京橋区の楓川に、米国人技師スクワイヤー・ウイップルの発明した形式を元に工部省赤羽分局により製作、架橋。 付近には江戸時代の武将で旗本の島田弾正屋敷があったため、弾正橋とした。 当時、馬場先門から本所や深川を結ぶ主要路で、文明開化を象徴する鉄橋であった。

八幡堀遊歩道
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八幡堀遊歩道

かつて八幡堀という河川が存在した。

旧新田橋
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旧新田橋

かつて大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結んでいた人道橋。 新田清三郎氏は大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院を開業。 1932年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて架橋、名称を新船橋とした。 町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」のような存在となり、次第に「新田橋」と呼ばれるようになった。 また、映画やテレビの舞台ともなり、人気スポットの一つとなっている。

季華(きっか)
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季華(きっか)

深川・江戸の伝統工芸品ギャラリー&ショップ。 深川やその周辺の伝統工芸品に相応しい9人の職人による技を紹介。 店内には食器やテーブルウェア、インテリア、日用品、江戸無地染、江戸切子など。

隅田川テラス 隅田川大橋下
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隅田川テラス 隅田川大橋下

平時には散策路、公園など憩いの場として親しまれている。 1980年代、スーパー堤防等整備事業の一環として東京都が順次整備。

佐久間象山砲術塾跡
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佐久間象山砲術塾跡

江戸時代、兵学者・朱子学者・思想家・松代藩士として活躍。 信濃国(長野県)松代藩下屋敷があり、佐久間象山は西洋砲術塾を開塾。 1833年、信濃松代を離れ、江戸で佐藤一斎に朱子学を学ぶ。 1842年、藩主真田幸貫より海外事情の調査。 1840年、イギリス・清国間でアヘン戦争が勃発、海防問題に取組む。 江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門、西洋砲術を学ぶ。 1850年、当地で勝海舟を含む諸藩の藩士らに西洋砲術を教えた。 1850年、信濃松代に戻り、江戸の木挽町(中央区)に砲術塾を開塾、吉田松陰・坂本龍馬・加藤弘之らが入門。 1854年、ペリー来航で吉田松陰による密航未遂事件に連座して松代に幽閉。

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