東海道散歩その1 (日本橋から舞坂宿)
東海道五十三次 宿場を歩く。 ファイルが大きくなったので日本橋から舞坂宿までの東海道散歩その1と京都三条大橋から新居宿までの東海道散歩その2に分けました。
善福寺
善福寺 この寺のちょうど裏に面した御殿山の上に英国大使館が建設されていた。
法禅寺
法善寺には、御殿山をお台場築造のために崩した際に出土した板碑が保管されていました。鎌倉時代から戦国時代にかけて作られた年号が書かれているとの事。 法禅寺には、天保4年(1833年)に始まりその後数年間続いた天候不順により多数の餓死者がでた。その方々を祀る供養塔がある。 品川宿には農村などからの流浪者が多くこの付近で飢餓などで死んだ人が、891人を数えるに至った、と記してある。 これらの死者は、法禅寺と海蔵寺に葬られた。法禅寺には500人余りが埋葬されたとある。
品川宿脇本陣跡
品川本陣跡。今は、公園になっている。
品川橋
しながわ橋 この橋を渡り目黒川を超えると南品川宿となる。
常行寺
常行寺
天妙国寺
天妙国寺の石碑に安政4年とある。
品川寺
このお寺は品川に古くからあるお寺で、その歴史が面白い。品川そのものの歴史となっている。 品川寺の歴史は、大同年間(806年~810年)に開創された品川で最も古いお寺。 本尊「水月観音」は、弘法大師空海上人(774年~835年)が東日本を教え、導いた時、この地の領主、品河(しなかわ)氏に授け、以来、応永2年(1395年)品河左京亮の代まで代々同家に伝えられました。 江戸時代を通し。品川寺は、本尊水月観音と大梵鐘、江戸六地蔵第1番尊の3つを、お寺の三宝として、大切にし、町の人々の深い信仰と、東海道を行き交う多くの旅人にこよなく愛されました。
海晏寺
岩倉具視や松平春嶽が眠る今の海晏寺は、京浜急行青物横丁駅の北側に第一京浜国道に面してある。 学生時代、岩倉具視関する本を読んでいると、京都で病で倒れた岩倉具視が船で東京の病院に運ばれ病で伏している際に、海が見え、春は桜で秋は紅葉で美しい場所にある海晏寺に葬って欲しい、というような話がある。 本堂の裏手の丘を昇り始めると、その麓に松平春嶽のお墓を偶然見つけた。福井ではなく東京に、しかも岩倉具視と同じ場所、しかもその足下にあることに生前の二人の強いつながりを感じた事を覚えている。 丘の頂上に岩倉具視のお墓がある。東京湾を眺める方向にあった。
仙台藩下屋敷跡
仙台藩下屋敷跡 海晏寺で岩倉具視が眠る小高い丘の西には、仙台藩下屋敷跡がありました。今は、公園になっている。
山内豊信(容堂)墓
山内容堂墓 さらに西隣には、山内容堂が眠っている。ここは鮫洲駅の北側に位置する。 土佐藩下屋敷があった場所(現在の立会川駅北側)からは少し離れた場所になる。 山内容堂が、この界隈で酒を飲んでは遊んでいた話が伝わっていることから、この界隈が好きだったのではないかと推測できる。 ちなみに、今でもこの辺の呑み屋では山内容堂が好んだ瓢箪の絵を掲げているお店を見かける。
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