せやせや!関西が好っきゃねん
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PON!と先斗町で楽しむ納涼床(川床)

PON!と先斗町で楽しむ納涼床(川床)

まいどまいど! 京都を代表する繁華街っちゅうたら、PON!と先斗町かもしれまへんな。 先斗町と書いて「ぽんとちょう」。 なんや読めそうで読まれへん、えらい難読地名ともなってまんねやけども、そんな難読地名にも関わらず、街並みは情緒あふれる昔ながらの趣を今に伝え、国内外から注目を浴び、今日もぎょうさんの観光客が訪れてはりまんねん。 夏はなんちゅうっても、納涼床でんな。 夏季限定で開放される納涼床は避暑の場所としても人気で、一歩、お店に入ると足元には鴨川を流れる水の流れ。 テーブルの上には地産地消を根差した京都の美味しいお料理が少量ずつ運ばれてくる。 カップルと、ご家族と、ご友人とゆったりとした時間を過ごすことができまんねん。 ほんでまた、ぶらりと周辺を散策したときに、見つけたおもろそうな場所も。 今回も京都の魅力を求めて、ぼちぼちと皆さんにご案内していきまひょ! ほな、まいどおおきに。

土佐藩邸跡
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土佐藩邸跡

江戸時代、現在の高知県を拠点とする土佐藩の藩邸があった。 高瀬川に面して門が開かれ、高瀬川には土佐橋が架橋。 1690年には、京都藩邸の法律が定められ、藩邸は藩の京都連絡事務所となり、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定、各種の連絡事務にあたった。 武市瑞山、坂本竜馬、中岡慎太郎、後藤象二郎ら土佐藩出身の志士が所属。 江戸時代、土佐藩京屋敷内に土佐稲荷が遷座。 明治時代、土佐藩京屋敷が売却。 土佐稲荷は京都府京都市中京区の近江屋が元土佐藩用人邸を買い取り、遷座。 境内には土佐藩にゆかりのある坂本龍馬の像が建立。 立誠小学校が開校するも閉校。

岬神社(土佐稲荷)
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岬神社(土佐稲荷)

別名、岬神社。 祭神は、倉稻魂神、猿太彦命、大宮乃賣命。 1348年、鴨川西通りの中洲の岬に祠を建立。 江戸時代、土佐藩京屋敷内に遷座。 明治時代、土佐藩京屋敷が売却され、下大阪町に奉遷。 京都府京都市中京区の近江屋が元土佐藩用人邸を買い取り、1887年に現在地に遷座。 境内には土佐藩にゆかりのある坂本龍馬の像が建立。

高瀬川七之舟入址 駒札
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高瀬川七之舟入址 駒札

江戸時代、高瀬川は豪商角倉了以と素庵によって開削。 高瀬川という名称の由来は日本各地で使用された川舟の一つである高瀬舟から。 開削後、高瀬川には高瀬舟などが頻繁に行き交い、舟入は荷物の積み下ろしと船の方向転換に使用された。 一之舟入のみが現存し、二之舟入、三之舟入、五之舟入、六之舟入、七之舟入、八之舟入、九之舟入の各舟入は消滅。

坂本龍馬 妻 お龍 寓居跡の碑
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坂本龍馬 妻 お龍 寓居跡の碑

江戸時代に活躍した土佐藩郷士の坂本龍馬と結婚した楢崎龍の寓居跡。 1841年、医師の楢崎将作と貞(夏)の長女として生まれた。 別名、お龍。 家族には光枝、三女・起美(君江)、太一郎、健吉がいた。 生け花、香道、茶の湯などを嗜んだが、炊事は苦手であったとか。 母は悪者に騙され、妹の起美が島原の舞妓に、光枝が大坂の女郎に売られると知り、お龍は着物を売って金をつくると大坂に下り、刃物を懐に抱えて死ぬ覚悟で男2人を相手に啖呵を切って妹を取り返した。 お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働き、龍馬と出会う。 初めて会ったときに名前を聞かれ、紙に書くと名前が似ていたことから笑っていたとか。

後藤象二郎寓居跡
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後藤象二郎寓居跡

江戸時代から明治時代にかけて活躍した土佐藩士で政治家。 板垣退助・佐々木高行と並ぶ土佐三伯の1人。 1838年、高知城下片町生まれ。 幼少期、叔父・吉田東洋に預けられ、少林塾に通い、柳河藩士の大石種昌に大石神影流剣術を学んで文武の業を修めた。 1858年、幡多郡奉行となり土佐藩の大坂藩邸建築のための普請奉行に就き、御近習目付となるも東洋が暗殺され、任を解かれた。 1863年、江戸に出て開成所で大鳥圭介に英語を学び、会津藩士・高橋金兵衛に航海術を学んだ。 1864年、藩政に復帰、前藩主で事実上藩政を執った山内容堂により大監察や参政に就く。

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