別名、戎島紡績所。
1866年、薩摩藩は殖産興業を推進するため、堺に蔵屋敷の建設を名目に用地を獲得。
薩摩藩士石河確太郎(正龍)が責任者となってイギリスのミュール紡績機(ビギンズ商会製)が運び込まれた。
1870年、日本で2番目の機械紡績工場が建設、蒸気機関の試運転を開始。
1872年、五代友厚が営業担当にあたったが、業績は不振で廃藩置県を機に大蔵省勧農寮に買収(内務省に移管)。
石河は明治政府に登用、責任者に。
1877年、明治天皇は関西行幸の折に視察に訪れた。
1878年、浜崎太平次・肥後孫左衛門に払い下げられ、川崎正蔵の代理人の川崎正左衛門の所有となり「川崎紡績所」と改称。