小柳 恵一
小柳 恵一

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奈良散歩

奈良散歩

私が好きな散歩道が沢山あります。 例えば、 東大寺南大門をくぐり、鏡池を右に折れて小高い丘を登り二月堂へと向う。今でも、そこを初めて訪れた時の感動を忘れない。 今は、丘を登る道がコンクリートになっているのが残念であるが、それも少しあがり右に折れれば、昔のままの石段が続く。その石段を登るにつれて、大きな釣鐘が石段の上に見えてくる。振り返れば、東大寺大仏殿の東側面を木陰の中に見る事ができる。 次の石段を更にあがると三月堂の美しい景観が前面に広がってくる。石段を登りきれば、二月堂、三月堂そして四月堂に囲まれた空間に自分が包まれていることに感動を覚える。 滲み出た汗をふき、二月堂へあがる。大仏殿の屋根から吹き上げてくる風を全身に浴びて、この小さいがとても美しい世界を体中で感じとることができる。とても幸せな瞬間である。 二月堂を降り、石塀に囲まれた小道をあるいて鏡池へと戻る。世界に自慢できる空間だと確信する。

東大寺金堂(大仏殿)
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東大寺金堂(大仏殿)

東大寺が国分寺の総本山として建立されるまでは、金鐘寺があった。この寺は、聖武天皇と光明皇后の間に産まれ幼くして亡くなった基皇子の為に建てらている。 この後、2人の間に男子は産まれていない。その為に聖武天皇の後に女帝てあり独身であった孝謙天皇が後を継いでいる。 聖武天皇の母親は藤原不比等の娘であり文武天皇との間に生まれたのが聖武天皇。妻である光明皇后も藤原不比等の娘である。つまり天武天皇と持統天皇の血と藤原家の血を引き継ぐ者だけが天皇となれた時代でもあった。 政治は藤原不比等の3人の息子によって行われていた。その3人が天然痘により突然死んだ。 天皇と皇后は不安のどん底に落ちた様だ。

法隆寺
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法隆寺

法隆寺散歩  梅原猛の法隆寺論が面白い。 歴史は藤原不比等によって日本書紀において偽造された。しかし、どうしても偽装しきれないものが残る。その真実の隠された尻尾が、正に法隆寺ではないか、と梅原猛は説く。 古事記はオオクニヌシの鎮魂を、日本書紀は聖徳太子とその一族の鎮魂と、聖徳太子を聖人に祭り上げることにより蘇我氏に代わって仏教の促進とその人々を引きつけるための藤原不比等の戦略であった。そして藤原氏の幸せを願うための藤原氏の氏寺である興福寺と聖徳太子とその一族の鎮魂のための法隆寺を同時に建てる事により藤原不比等は安心感を覚えたのではないか、と梅原猛は説いている。

法隆寺 夢殿
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法隆寺 夢殿

東院伽藍にある。かつての聖徳太子が住んでいた場所。 聖徳太子死後、藤原氏一族は、先祖である中臣鎌足らが聖徳太子一族25人を無実の罪で若草伽藍(現在の法隆寺東院伽藍と重なる)の塔の中で殺害し聖徳太子一族の血を消滅さている。 その後、藤原不比等が亡くなった後、藤原氏にとって大きな不幸が続く。北九州から広がってきた疫病などの為に不比等の4人の息子が相次ぐ死ぬ。 これは東院伽藍で封じ込めたはずの聖徳太子の怨霊による祟りとの思いから不比等と橘千代との間に生まれた娘である光明皇后がその聖徳太子一族の鎮魂の為に建てたのが夢殿である。聖徳太子の屋敷跡に六角堂、つまり墓を光明皇后が僧行信に建てさせた。

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