古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
用明天皇河内磯長陵
古事記によると、 “用明(ようめい)天皇は丁未の年の四月十五日にお隱れなさいました。御陵は初めは磐余の掖上にありましたが後に科長の中の陵にお遷し申し上げました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、 用明天皇陵 聖徳太子の父として有名であるが短命であった。
崇峻天皇倉梯柴垣宮伝承地
崇峻(すしゅん)天皇 古事記によると、 “弟のハツセベノワカサザキの天皇(崇峻天皇)、大和の倉椅の柴垣の宮においでになつて、四年天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の倉椅の柴垣の宮跡に建つ金福寺。
崇峻天皇陵(倉梯岡陵)
古事記によると、 “(崇峻天皇)壬子の年の十一月十三日にお隱れなさいました。御陵は倉椅の岡の上にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 なお、Wikipediaによれば、臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。 死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。
推古天皇豊浦宮跡
“妹のトヨミケカシギヤ姫の命(推古天皇)、大和の小治田の宮においでになつて、三十七年天下をお治めなさいました。” 推古天皇は、豊浦の宮で即位し、小治田の宮へ移ったとされている。 この地は元々蘇我馬子が寺を建てた場所。 蘇我馬子は敏達天皇の皇后であった額田部皇女を帝位につけ、用明天皇の皇子である聖徳太子を皇子としている。 豊浦寺跡の一角には、仏像を破棄したと言われている難波池がある。 舶来の仏教と古来の神々を信仰する物部氏との戦いで勝利した蘇我馬子が法興寺(飛鳥寺)を建て、崇峻帝を東漢駒に殺させた後、ここで推古天皇を即位させている。11年間都とし603年に小墾田へ遷都する。
古宮遺跡(伝推古天皇小墾田宮跡)
写真は、小治田の宮跡(小墾田宮(おはりだのみや))と伝わる場所。 豊浦の宮跡から北へ数百メートルの場所にある。 しかし、この地下には何の跡もないとの事。むしろこの地は、推古天皇豊浦宮跡の一部であった考えた方が妥当なのではないか。現在、指定されている推古天皇豊浦宮跡だけでは小さすぎる。 後に、推古天皇豊浦宮は小墾田宮に遷都した後飛鳥寺に対して尼寺として使用されていた。 三十八柱神社⛩みそやはしら神社が小墾田宮跡地として有望との事。
推古天皇陵
古事記によると、“戊子の年の三月十五日癸丑の日にお隱れなさいました。御陵は初めは大野の岡の上にありましたが、後に科長の大陵にお遷し申し上げました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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