古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
宮地嶽神社
古事記によると、 “今まことにあの國を求めようと思われるなら、天地の神たち、また山の神、海河の神たちに悉く幣帛を奉り、わたしの御魂を御船の上にお祭り申し上げ、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、仲哀天皇の妻であるオキナガタラシ姫の命(神功皇后)が三韓征伐に向けて滞在し開運を祈願したとの言い伝えがある宮地嶽神社の山。 残念な事に高木に遮られて玄界灘が観えませんでした。
小戸公園
古事記によると、 “そこで悉く神の教えた通りにして軍隊を整え、多くの船を竝べて海をお渡りになりました時に、海中の魚どもは大小となくすべて出て、御船を背負つて渡りました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 オキナガタラシ姫の命(神功皇后)が三韓征伐に向けて出港し凱旋したとの伝説がある港として、 2つの場所が伝説の地として伝わっています。 伝説その1: 小戸公園に面した海 伝説その2: 鎮懐石八幡宮(ちんかいせき八幡宮)に面した海 写真は、小戸公園に面した海です。
鎮懐石八幡宮
伝説その2: 鎮懐石八幡宮(ちんかいせき八幡宮)に面した海
宇美八幡宮
鎭懷石と釣魚 古事記によると、 “そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになつて裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになつてからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、応神天皇がお生まれになった場所であるウミに建っているとの伝説がある宇美八幡宮。
鎮懐石八幡宮
古事記によると、 “また(神功皇后が)その裳につけておいでになつた石は筑紫の國のイトの村にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、筑紫の國のイトの村にあり、オキナガタラシ姫の命(神功皇后)が出産を鎮めるために用いた鎮懐石(ちんかいせき)が奉祀されているとの伝説がある鎮懐石八幡宮。
玉島神社
古事記によると、 “また筑紫の松浦縣の玉島の里においでになつて、その河の邊で食物をおあがりになつた時に、四月の上旬の頃でしたから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取つて飯粒を餌にしてその河のアユをお釣りになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、松浦縣の玉島の里との伝説がある玉島神社が河に面して建っています。
琵琶湖
カゴサカの王とオシクマの王 古事記によると、 “(オシクマの王は)かくて逢坂に逃げ退いて、向かい立つてまた戰いましたが、遂に追い迫り敗つて近江のササナミに出て悉くその軍を斬りました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿禰と共に追い迫められて、湖上に浮んで歌いました歌、(略)と歌つて海にはいつて死にました。 ” 逢坂は、滋賀県大津市の逢坂。オシクマの王が山城(京都府)で神功皇后の兵に負けたと、後の東海道沿いに東に逃げ、ここ逢坂に退き戦ったようです。その逢坂から近江のササナミ(楽浪)に出て琵琶湖に身を投げています。 写真は、その近江のササナミ(楽浪)と琵琶湖。
気比神宮 大鳥居
氣比の大神 古事記によると、 “かくてタケシウチの宿禰がその太子(後の応神天皇)をおつれ申し上げて禊をしようとして近江また若狹の國を經た時に、越前の敦賀に假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、イザサワケの大神である比大神/気比神を祀る氣比神宮。
史跡金ヶ崎城跡
古事記によると、 “それでこの神の御名を稱えて御食つ大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦と言いましたが、今では敦賀と言います。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、金ヶ崎城跡から眺める敦賀湾。
仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)
古事記によると、 “タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)の御年は五十二歳、壬戌の年の六月十一日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀の長江にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、仲哀天皇綾。
五社神古墳(神功皇后陵 狭城盾列池上陵)
古事記によると、 “皇后樣は御年百歳でお隱れになりました。狹城の楯列の御陵にお葬り申し上げました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、神功皇后綾。
法輪寺(軽寺跡)
七、應神天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 “ホムダワケの命(應神天皇)、大和の輕島の明の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の輕島の明の宮跡との伝説がある春日神社境内にある石碑 このあたりは飛鳥~白鳳時代の軽寺跡とされてるそうです。 http://ryobo.fromnara.com/palace/p015-2.html
菟道稚郎皇子墓
古事記によると、 “かくてオホサザキの命とウヂ(宇治)の若郎子とお二方、おのおの天下をお讓りになる時に(中略)“しかるにウヂの若郎子は早くお隱れになりましたから、オホサザキの命が天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、ウヂ(宇治)の若郎子の御墓。(莵道稚郎皇子御墓)。
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