幕末から明治維新にかけて躍動した萩のまち
まいどまいど! 今回は江戸時代から明治維新にかけての「激動」時代を駆け抜けた志士たちが生まれ育ったまち、山口県萩市を観光しまひょ。 過去2018年は、明治維新の1868年から150年。 この年は日本各地で様々なイベントが開催され、萩市でも観光にえらい力を入れてはりました。 何よりも萩市は高杉晋作や木戸孝允(桂小五郎)らを輩出、そして、何よりも私塾の松下村塾の塾を経営していた吉田松陰の過ごした町。 特に、長州藩の藩校である明倫館では、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷学校と並ぶ、日本三大学府の一つと称されたほど。 などなど、学校の教科書をはじめ、1度や2度は聞いたことがある名前やおまへんでっしゃろか。 ほんでまた、ユネスコの世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」に登録されたっちゅうことで、観光地としては毛利輝元の萩城をはじめ、萩城下町、萩反射炉など、新たに世界的に注目を集めてはります。 1863年、長州藩から清国を経由してヨーロッパに派遣された井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名「長州五傑・長州ファイブ」の足跡も巡りまひょ。
萩市
山口県萩市で活躍するマスコットキャラクター「忠義の猫 萩にゃん」。 萩では古くから伝わる忠義の猫「猫町伝説」の蘇り。 高杉晋作に憧れて奇兵隊の姿を真似。 頭には毛利家家紋の肉球バージョン入り陣傘。 首には鈴の代わりに萩の特産品である夏ミカン。 好物は、蒸気饅頭、長州おはぎ、金太郎、萩の瀬付きあじ。 好きな言葉は忠義。
旧萩藩校明倫館
1718年、5代藩主吉元が毛利家家臣の子弟教育を目的として萩城三の丸(堀内)に建設された長州藩の藩校。 水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷学校と並ぶ日本三大学府の一つ。 1849年、毛利敬親の藩政改革に伴い、現在地に移転。 聖廟の宣聖殿を中心に小学舎、手習所など学問習得のための建物が配置。 漢学中心の初等・高等の教育を行う。 その他、槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、水練池、練兵場が設置。 吉田松陰や楫取素彦(小田村伊之助)らが教壇に上がっていた。 1863年、藩庁の山口移転により1815年に上田鳳陽が開設していた私塾山口講堂(山口講習堂)を山口明倫館と改称、藩校に改め萩・山口の両明倫館が並立。
松陰神社
祭神は、江戸時代に活躍した吉田松陰と門人である伊藤博文、山県有朋、高杉晋作、木戸孝允、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一ら松下村塾の出身者。 1890年、吉田松陰の実家・杉家の邸内には杉民治が土蔵造りの小祠を建立。 松陰の遺言により、愛用していた赤間硯と松陰の書簡を神体として祀って創建。 1907年、伊藤博文と野村靖が中心となり神社創建を請願、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築。 土蔵造りの旧社殿は松下村塾での門人を祭る末社・松門神社となっている。
松下村塾
江戸時代、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾。 建物は木造瓦葺き平屋建ての小舎。 当初から存在した8畳と10畳半の部分から構成。 1842年、吉田松陰の叔父・玉木文之進が私塾「松下村塾」を開設し、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。 吉田松陰も入門、文之進の指導は厳格であったといい、蚊を払うと殴られた。 松陰の外叔、久保五郎左衛門が継承し、塾生の教育にあたった。 1857年、藩校明倫館の塾頭を務めていた吉田松陰が同塾を継承した。 1858年、松陰が野山獄に再投獄され、塾生の多くが地元を離れた。 再度、玉木文之進が塾頭となり、場所を自宅に移した。
萩反射炉
煙突部の遺構が現存する反射炉跡。 世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つで、日本で現存する近世の反射炉は、萩反射炉と韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)のみ。 長州藩(萩藩)は、アヘン戦争や黒船来航によって海防強化が必要と判断し、西洋式鉄製大砲の鋳造を目的とする金属溶解炉として反射炉の導入を計画。 1855年、佐賀藩は反射炉の操業を開始し、藩士山田宇右衛門らを派遣。 山田らは鉄製大砲の鋳造法習得を目指したが、製砲掛の不在などを理由に拒否。 煙突部の遺構が現存する反射炉跡。
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