日本の国技・大相撲興行とともに歩んできた墨田区
まいどまいど! 日本の国技を代表する相撲興行のおひざ元として知られる東京都墨田区横網。 地名もどことなく相撲を連想させられるような横網ともなってまんねやけど、ここでは両国国技館だけやく、ぎょうさんの力士が所属する相撲部屋が各地に点在しているなど、古くから相撲と歩んできた歴史があり、今日もぎょうさんの相撲ファンが当地を訪れている。 ここの最寄は両国駅で、駅を出ると、両国国技館で活躍する力士を模した像が国技館通りに建立され、来場者を楽しませてくれる。 ほんでまた両国という場所は相撲との関わりが深いだけでなく、置き去りを意味する「置いてけぼり」の語源の発祥とされる本所七不思議と呼ばれる奇談・怪談の1つである「両国物語 置いてけ堀・御竹蔵跡」も語り継がれてはりまんな。 さらに、今、日本国民だけでなく世界的に愛されてきた寿司という料理も実は領国が発祥の地とされ、ワサビを使用した握り寿司を考案した与兵衛鮨発祥の地の碑も建立されてまんねん。 っちゅうことで、両国は相撲あり、置いてけ堀あり、寿司あり・・・で、まさに日本文化の原点。 そんな両国をとことん散策し、日本の原点を探しにお出かけしまひょ!
刀剣博物館
日本刀専門の博物館である。 刀剣・刀装・刀装具類を収蔵・公開する。 1948年、日本刀を保存継承するために、日本美術刀剣保存協会が設立された。 1978年、刀剣博物館が開館。 2017年、渋谷区にあった旧刀剣博物館が閉館。 2018年、新刀剣博物館が開館。
べっ甲資料館
主にべっ甲を展示、公開している施設。 べっ甲工芸は奈良時代から行われてきた伝統工芸技術の一つ。 江戸時代、儀式用の装身具として使用された。 現代、アクセサリー、インテリアまで多くの幅広い分野で使用されている。 材料は亀の甲羅「タイマイ」。 くし、かんざし、こうがいなども展示、公開している。
横網町公園
東京都立の公園である。 1922年、かつて、陸軍被服廠があったが東京都北区に移転し、公園として整備。 1923年、関東大震災が発生し、避難場所として被災者が集まった。 地震の発生により火災となって家財道具などに火が燃え移り、火災旋風が発生。 荷物や馬車まで巻き上げ、炎に包まれた結果、38000人が犠牲となり、遺骨は慰霊堂に収容された。
東京都慰霊堂(鐘楼堂・復興記念館・震災遭難児弔魂像)
1945年、第二次世界大戦により東京大空襲となり、犠牲者が埋葬され、「震災記念堂」に合祀されることになった。 「東京都慰霊堂」に改称し、現在に至る。
両国物語 置いてけ堀・御竹蔵跡
置行堀(おいてけぼり、おいてきぼり)は、当地を舞台とした本所七不思議と呼ばれる奇談・怪談の1つ。 置き去りを意味する「置いてけぼり」の語源。 江戸時代、当地周辺には水路が多く、町人たちが錦糸町あたりで、釣り糸を堀に垂らしたところ、よく釣れた。 夕刻、帰宅しようとすると、堀の中から「置いていけ」という声が聞こえ、恐怖に駆られて逃げ帰った。 帰宅して魚籠を覗くと、大漁であった魚が一匹も入っていなかった。 東京・堀切駅付近には、置いてけ堀と呼ばれる池があり、ここで魚を釣った際、3匹逃がすと無事に帰宅できるが、魚を逃がさないと迷子になったり、釣った魚を全て取り返されたりするという千住七不思議の一つ。
JR 両国駅
東日本旅客鉄道(JR東日本)中央線と総武線、東京都交通局(都営地下鉄)都営大江戸線の停車駅の一つ。 1904年、総武鉄道が両国橋駅として開業。 日本の鉄道では初めてとなる高架区間であった。 垂れ流し式のトイレからの汚物が沿線に被害を及ぼすことを避けるため、本所より西側ではトイレの使用が禁止された。 2015年、長距離列車の発車ホームとして使用された3番線の通路が両国ステーションギャラリーとしてリニューアルオープン。 ここでは、両国駅の歴史や両国駅周辺の歴史、過去に使用されていた列車の写真や資料の展示、公開を行っている。
両国公園
勝海舟の生誕地。 武士、政治家等として活躍。 山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれた。 1823年、生まれ。 幼名は麟太郎。 諱は義邦、明治維新後、改名して安芳。 幕末、武家官位「安房守」を名乗り、勝 安房として知られていた。 維新後、「安房」を避けて「安芳」に代えたもの。 勝本人は「アホゥ」とも読めると発言。 海舟は号で、佐久間象山直筆の書、「海舟書屋」からとったもの。 島田虎之助に入門、剣術・禅を学び、直心影流剣術の免許皆伝となる。 家督を継ぎ、永井青崖に蘭学を学び、赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。
本所松坂町公園(吉良上野介邸跡)
吉良義央の邸宅跡で、稲荷社や井戸、桜の木などが植樹。 吉良上野介の屋敷は、鍜治橋の屋敷を拝領していた。 松の廊下の刃傷事件後、幕府の命によりに御用地となり、松平登之助の屋敷に移住。 江戸時代、付近一帯は吉良義央の邸宅であり、その広さは約8400平方m(2550坪)程度。 邸宅は、赤穂浪士によって討ち入りが決行され、赤穂事件の現場となった。 赤穂事件とは江戸時代、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介義央を斬りつけたとして、切腹に処せられた。 浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央、小林央通、鳥居正次、清水義久らを討った。
鏡師中島伊勢住居跡
1700年代、中島伊勢は幕府用達の鏡磨師。 浮世絵師の葛飾北斎となる時太郎を養子とした。 赤穂事件(忠臣蔵)後、町人に払い下げられ、本所松坂町となった場所に住居を構えた。 葛飾北斎は、中島八右衛門を通称とした。
塩原太助炭屋跡
塩原太助は、三遊亭円朝の「塩原多助一代記」で有名な江戸時代の豪商。 1743年、群馬県みなかみ町生まれ。 幼名は、彦七。 1761年、江戸に出た。 1785年、炭屋山口屋で奉公。 後に独立し、木炭の粉に海藻を混ぜて固めた炭団を発明し、大商人に成長。 以後も、私財を投じて道路改修や治水事業などを行った。 「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどの成功を収めた。
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