
坂の上の雲「坊っちゃん」夏目漱石ゆかりの松山
愛媛坂の上の雲「坊っちゃん」夏目漱石ゆかりの松山
まいどまいど! 時代を超えて愛され続ける小説「坊っちゃん」。 その坊っちゃんを描いた故郷が愛媛県の松山市。 市内中心部は加藤嘉明公ゆかりの松山城があり、周辺には夏目漱石も過ごしたという宿や足跡がぎょうさんおます。 萬翠荘もその一つで、当時と変わらへんそのままの姿で保存。 近くには坂の上の雲を題材にした博物館があり、明治維新を成功させて近代国家として歩み出し、日露戦争勝利に至るまでの勃興期の明治日本を描いた司馬遼太郎など、いろんな角度から知ることができまんねん。 その坂の上の雲の主人公ともなった正岡子規と秋山兄弟。 実は秋山兄弟(日本陸軍における騎兵部隊の創設者、秋山好古、海軍における海戦戦術の創案者である秋山真之も松山市の出身で生誕地となった名所も大切に保存されておます。 その他、松山城周辺には大街道商店街があり、飲食店や居酒屋、雑貨店などが立ち並ぶ人気観光地。 かつては映画館が乱立し、市民の交流の場ともなっていたそうですが、時代とともに姿を消し、ほぼ幻に。 夏目漱石はどんな思いで「坊っちゃん」を描き、秋山兄弟、正岡子規どんな日常を過ごしていたのか。 そんな松山市を観光していきまひょ。
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全蓋式アーケード商店街。 商店街一帯は市内最大の繁華街・歓楽街で、松山中央商店街の一部。 一番町通り(国道11号)から千舟町通りにかけての全長483mの商店街。 隣接する商店街の銀天街に接続し、飲食店や居酒屋などが立ち並ぶ。 松山藩の城下町としてのにぎわいがあり、古町から呉服商等が移って町を形成。 大正時代、用水路が埋め立てられ、松山随一の商店街を形成。 1929年、小唐人町と呼ばれていた。 片側に柳の並木があり、松山銀座とも。
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安倍能成の生家跡
日本の哲学者、教育者、政治家として活躍。 法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣、貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長、学習院院長、帝室博物館総長・国立博物館館長、国語審議会会長などを歴任。 1883年生まれ。 医師安倍義任、品の八男。 同期生には岩波茂雄、伊藤吉之助、小山鞆絵、宮本和吉ら。 後年、岩波書店の経営に「哲学叢書」の編集者として関与。
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ホトトギス
在学中、友人とともに夏目漱石の元を訪問。 「ホトトギス」などに文芸評論を発表、1911年には阿部次郎らとともに「影と声」を刊行。 後に「漱石門下の四天王」と称された。 哲学に活動の場を移し、「予の世界」を刊行。 「西洋古代中世哲学史」「西洋近世哲学史」「カントの実践哲学」などを発表。 教育刷新委員会委員長として学制改革や教育基本法制定など教育制度改革に尽力。
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夏目漱石の下宿先。 名称は夏目漱石の俳号・愚陀仏に由来。 1945年、焼失。 1982年、萬翠荘(旧久松家別荘)付近に木造二階建ての建物として復元も、2010年に倒壊。 愚陀仏庵は上野義方邸の離れとして建設。 1895年、夏目漱石は英語教師として旧制愛媛県尋常中学校に赴任し、下宿。 俳人・正岡子規も居候したとか。
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1950年代、松山市内では映画館や劇場の開館が相次ぎ、映画館だけで全盛期には約30以上を数えたとか。 後に、テレビが普及し、次々と姿を消した。 2020年、シネマサンシャイン大街道が閉館し、市中心部ではミニシアター「シネマルナティック」のみ。 1978年、「松山シネマサンシャイン」を開館するも2003年に閉館。 1989年、「シネマサンシャイン大街道」を開館。
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かつて当地に食堂「喜楽」があり、女将として今井琴子さんがいた。 1945年の終戦間近、大日本帝国海軍の戦闘機「紫電改」の搭乗員に餞別として38枚の「紫のマフラー」を贈ったという。 そのマフラーは「紫電改展示館」(愛媛県愛南町)で飾られるという。
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愛媛県松山市に本社を置く日本の百貨店。 1971年、いよてつそごうとして開業。 2001年、伊予鉄百貨店に改称、愛称はローズ・ナード。 2002年、伊予鉄髙島屋に改称。 駅前広場には市内電車駅やバス発着所、タクシー乗り場等がある。 2001年、屋上には高さ85mの大観覧車「くるりん」がある。
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小林信近翁
日本の実業家、政治家。 1842年、愛媛県松山市生まれ。 伊予鉄道会社初代社長、第五十二国立銀行(伊予銀行)、松山商法会議所(松山商工会議所)、伊予水力電気(四国電力)創業。 海南新聞社(愛媛新聞社)社長などを歴任。 1880年代、工部省神戸鉄道局の用材調達を請負、大坂に滞在。 当時四国には鉄道がなく思案、外国人技師を訪ね指導を受けて松山に鉄道を建設することを決意。
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小林信近翁
1885年、当時私設鉄道は日本鉄道、阪堺鉄道の二社のみであったが許可された。 1894年、当時各地の電気会社(電力会社)は火力発電が主力で、水力発電は琵琶湖疎水を利用した蹴上発電所が日本初の営業用水力発電であった。 小林は御手洗川を利用して水力発電しようと研究をはじめ、電気事業経営会社を設立。
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かつて伊予鉄道の蒸気機関車(SL)及び牽引した列車。 2001年、同名のディーゼル機関車列車が路面電車で運行。 夏目漱石の小説「坊つちやん」で軽便鉄道時代の伊予鉄道が「マッチ箱のような汽車」として登場、四国・松山の中学校に赴任する主人公の坊っちゃんが乗車したことから、坊っちゃん列車と呼ばれるようになった。
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日本の新派俳優、映画監督、書家として活躍。 1881年生まれ。 本名、小坂 勇一。 新劇の芸術性と新派劇の大衆性とを兼ね備えた「中間演劇」を提唱。 松山で村芝居に出演し、砥部焼の陶器店へ丁稚奉公。 1896年、大阪で働いていた時に道頓堀角座で成美団の芝居を観て俳優を志す。 松山市の新栄座に来演した新演劇の敷島義団に入り、小坂幸二を名乗って初舞台を踏んだ。 矯風会、博多で酒井政俊一座、京都の村田正雄一座、上京後に真砂座の伊井蓉峰一座など、新派の一座を転々、伊井蓉峰の一座で頭角を現し幹部俳優となる。 1913年、日本初の野外劇「紅玉」(泉鏡花原作)を上演。
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第1回国民文芸会賞を受賞
新時代劇協会を結成して近代劇の上演、連鎖劇も手掛ける。 「大尉の娘」等で監督・主演。 井上演劇道場を創設し、多くの俳優を育成。 第1回国民文芸会賞を受賞。
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伊予鉄道高浜線、横河原線、郡中線の停車駅の一つ。 松山市駅停留場では「坊っちゃん列車」を牽引する蒸気機関車を模したディーゼル機関車が渡り線上で方向転換する作業の様子も。 四国地方初の自動改札機設置駅であった。 1888年、開業。
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路面電車
1887年に創業した日本で2番目に古い民営鉄道の歴史を持つ伊予鉄道が運営する路面電車。 松山市駅を拠点に環状線(東回りと西回り)、道後温泉、松山市駅・JR松山駅前、松山市駅と本町六丁目を結ぶ。 軽便鉄道時代に伊予鉄道で使用された蒸気機関車をディーゼル機関車として復元した「坊っちゃん列車」が運行されている。
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兄・秋山好古、弟・秋山真之。 松山出身の軍人で、日露戦争で活躍。 正岡子規と共に司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」の主人公として登場。 秋山好古は日本の陸軍軍人・教育者。 陸軍騎兵学校の参観に訪れたフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞され、日本騎兵の父とも。 秋山真之は日本の海軍軍人。 日本海海戦出撃の報告電報の一節「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」や「聯合艦隊解散之辞」の起草者としても知られる。
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司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」を題材にした施設。 2007年、開館。 「坂の上の雲」では明治維新を成功させて近代国家として歩み出し、日露戦争勝利に至るまでの勃興期の明治日本を描いた。 日本陸軍における騎兵部隊の創設者、秋山好古、海軍における海戦戦術の創案者である秋山真之、真之の親友で明治の文学史に大きな足跡を残した俳人正岡子規の3人が主人公。
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萬翠荘は1922年、旧松山藩主の子孫、久松定謨伯爵が別邸として建設。 陸軍駐在武官としてフランスに滞在した経験を活かし、建物は純フランス風。 当時最高の社交の場として各界名士が集まり、皇族方も来訪。 萬翠荘本館と管理人舎の2棟が国重要文化財に指定。
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萬翠荘は1922年、旧松山藩主の子孫、久松定謨伯爵が別邸として建設。 陸軍駐在武官としてフランスに滞在した経験を活かし、建物は純フランス風。 当時最高の社交の場として各界名士が集まり、皇族方も来訪。 萬翠荘本館と管理人舎の2棟が国重要文化財に指定。
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夏目漱石の小説「坊っちやん」の舞台ともなった小料理屋「愛松亭」。 萬翠荘玄関前の井戸の傍ら、平屋建の母屋、二階建ての離れ(愛松亭)があった。 夏目漱石は1895年、2階に下宿。 萬翠荘の建つ前は一帯が池で垜があり、漱石が弓を引いていたとき、高浜虚子が訪ねたことも。 当地はかつて久松家の家老菅氏の屋敷跡で、虚子の長兄池内政忠らも久松家用人として住んだ。 1922年、久松家別邸として萬翠荘が建設。
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山麓駅「東雲口しののめぐち」と山頂駅「長者ヶ平ちょうじゃがなる」とを結ぶロープウェイ・リフト。 松山城本丸は標高132mの勝山山頂に位置するため、ロープウェイやリフトは8合目付近まで運行。
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夏目漱石の小説「坊っちゃん」に登場する主人公の坊っちゃんとマドンナ像。
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安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した武将、大名。 豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人。 伊予松山藩および陸奥会津藩初代藩主。 1563年、愛知県西尾市で松平家康の家臣、加藤教明の長男。 三河一向一揆で父が一向一揆勢に加わって家康に背き、敗れて流浪の身に。 近江国で父は長浜城主・羽柴秀吉に仕えて馬の行商を手伝った。 幼少ながら優れた資質があると加藤景泰(加藤光泰の父)に見出され、秀吉に推挙。 秀吉は嘉明を養子羽柴秀勝の小姓として仕えさせるも播磨攻めで秀勝に従軍。 初陣前の主君を差し置いて小姓が初陣を遂げようとするとは何事かと激怒するも嘉明の意欲を逆に評価して直臣とした。
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加藤嘉明公
秀吉軍に従って三木城攻囲に参加して初陣を飾り、備中須久毛山の戦い以後も活躍。 織田家重臣の柴田勝家との間で行われた賤ヶ岳の戦いでは、福島正則、加藤清正、脇坂安治らと共に活躍、賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた。 関ヶ原の戦いでは奥川家康方に就き、石田三成の本隊と戦って武功を挙げた。 1601年、家康に勝山城(松山城)建築の許可を得て、築城を開始し、城下町を整備。
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大坂の陣
1600年代、江戸城修築、駿府城修築、篠山城築城、名古屋城造営などに従事。 1614年、大坂冬の陣では、豊臣恩顧の大名であったため嘉明は江戸城留守居となり、嫡男・加藤明成が代って出陣。 1615年、大坂夏の陣では、嘉明が出陣し、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の軍に従い、黒田長政と 共に秀忠軍左翼に陣をしいて武功を挙げた。 嘉明が会津藩へ移封、本拠を若松城に移した。
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松山城で活躍するマスコットキャラクター。 よしあきくんは松山城を築城した加藤嘉明がモチーフ。 誕生日は1月15日。 趣味は人とのふれあい、散歩。 好きな食べ物はお餅。 好きな言葉は一期一会。
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愛媛県松山市から西条市までを結ぶ国道196号沿いにある道の駅。 施設内では売店、レストラン、海水浴場などがある。