日本一の兵(つわもの)ゆかりの九度山町を散策
和歌山日本一の兵(つわもの)ゆかりの九度山町を散策
まいどまいど! 豊臣方と徳川方による関ヶ原の戦いが勃発した1600年頃。 このころから注目を集めていたのが真田信繁(幸村)。 信繁は1614年と1615年に勃発した大坂の陣で活躍し、徳川家康公を追い詰めたとも割れ、日本一の兵との異名を持つ。 その伝説は現在も語り継がれ、ドラマや映画にもたびたび登場してはりまんな。 そんな真田信繫のゆかりの場所が和歌山県の九度山町。 ここには関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れた真田昌幸・信繁父子が訪れたといい、女人禁制の高野山に配流の身となり真田氏ゆかりの蓮華定院に入った。 また周辺には真田昌幸・幸村(信繁)・大助(親と子と孫)三代の人生を描いた施設の九度山・真田ミュージアムや真田の抜け穴という伝説が残る史跡もあり、特に真田の抜け穴は遠く離れた大坂城までつながっているといい、「かつて真田幸村はこの抜け穴を使って戦場へ出向いた。」という伝説も!? 実際には300年代に築造された古墳があり、真田の伝説が残る場所として知られてまんねん。 産直市場よってって九度山店で併設された観光案内所で情報集して付近を散策していきまひょ!
地域の名産や特産物などが揃う施設。 周辺の観光案内や情報発信などを行っている。 また施設内には飲食店があり、コーヒーなどの飲み物や軽食も。
真田昌幸・幸村(信繁)・大助(親と子と孫)三代の人生を描いた施設。 昌幸は、信濃国上田城(長野県上田市)の武将。 幸村は上杉家や豊臣家で人質となるも上杉景勝の家老を務めた直江兼続や豊臣秀吉と出会う。 大坂夏の陣では、 徳川家康の本陣にまで斬り込み、家康をあと一歩のところまで追い詰めた「日本一の兵(つわもの)」。 大助は九度山で生まれ、父と共に大坂の陣を戦い、主君・豊臣秀頼と運命を共にした。
宗派は高野山真言宗。 山号は伽羅陀山。 本尊は延命子安地蔵菩薩。 境内には真田昌幸・信繁の蟄居時代の草庵跡も。 別称、真田庵。 また牡丹の名所としても知られる。 1741年、大安上人によって真田昌幸の庵跡とされる当地に地蔵菩薩を安置して創建。 1600年、関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れた真田昌幸・信繁父子は、女人禁制の高野山に配流の身となり真田氏ゆかりの蓮華定院に入った。 昌幸の霊が度々出現し、大安は昌幸の霊を真田地主大権現として祀ったとも。
真田の抜け穴という伝説が残る史跡。 「この穴の向こうは大坂城に続いており、かつて真田幸村はこの抜け穴を使って戦場へ出向いた。」という。 実際、300年代の古墳があり、真田の伝説が残る場所として「真田古墳」と別名も。
江戸時代、高野山真蔵院の里坊(不動院)として建立。 民家(萱野家)として現存。 里坊とは山寺の僧などが住む住居のことで明治時代まで続いた。 明治時代、養父中川萬次郎の狂刃により六人斬り事件に巻き込まれ、17歳で両腕を切り落とされた大石順教尼。 書画の世界へと飛び込み、筆を口にくわえながらも尼僧を志した。 高野山での出家を目指していたが、旧不動院・萱野正之助、タツ夫婦が菩提親となり高野山天徳金山大僧正を師として得度。
宗派は日蓮宗。 山号は宝珠山。 旧本山は和歌山蓮心寺。 開基は貞苗院日普 1789年、貞壽院日實(丹波篠山の商人福田家の娘)が建立した玉林坊が起源。
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宗派は高野山真言宗。 山号は万年山。 本尊は弥勒仏(慈尊とも)。 高野山の政所として創建。 空海(弘法大師)が真言密教の道場の根拠地を求め、大和国宇智郡で猟師の姿に扮した地主神・狩場明神(高野御子大神)と出会い、紀伊国の霊地・高野山を知る。 狩場明神はその使いである白・黒二匹の犬に空海を高野山まで導いた。 816年、空海は嵯峨天皇から高野山の地を賜った。 九度山の雨引山麓に、高野山一山の庶務を司る政所(寺務所)を設置、高野山への宿所・冬期避寒修行の場として慈氏寺(慈氏とは弥勒仏のこと)を建立。 高野山の狩場明神とその母・丹生都比売大神も祀る。
女人の高野山参り「女人高野」とも
慈氏寺の壇(弥勒の壇)と神通寺の壇(明神の壇)を合わせて慈尊院と呼ばれた。 空海の母・阿刀氏(玉依御前)は、讃岐国多度郡(香川県善通寺市)から高野山を訪れるも女人禁制であるため、当地に滞在。 空海は政所を訪ね、母と再会。 835年の母の死後、空海は弥勒仏の霊夢を見、廟堂を建立し自作の弥勒仏像と母公の霊を祀った。 空海の母は弥勒仏を信仰。 入滅(死去)して本尊に化身、慈尊院は女人結縁の寺となった。
絵馬に布製の乳房が付く
1474年、御廟を現在地に移転。 1540年、紀ノ川の氾濫により現在地に移転。 1544年、紀ノ川の氾濫により、移転前の建物も損壊。 当院の絵馬は乳房型絵馬で、絵馬に布製の乳房が付く。 ユネコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録。
空海(弘法大師)が真言密教の道場の根拠地を求め、大和国宇智郡で猟師の姿に扮した地主神・狩場明神(高野御子大神)と出会い、紀伊国の霊地・高野山を知る。 狩場明神はその使いである白・黒二匹の犬に空海を高野山まで導かせた。 816年、空海は嵯峨天皇から高野山の地を賜った。 空海は高野山の地主神狩場明神と母の丹生都比売大神を当地に丹生高野明神社として祀った。 諸天善神への祈願地として天と神に通じるとして神通寺とするも丹生七社大明神や丹生神社へと改称。 七社のうち丹生・高野の両神は空海が勧請、十二王子と百二十番神の2社が勧請、気比・厳島の2神は勧請。 4社は、紀ノ川の氾濫によって遷座。