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東京都心で富士登山!? ついでに吉祥寺の散策も

東京都心で富士登山!? ついでに吉祥寺の散策も

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東京都心で富士登山!? ついでに吉祥寺の散策も

世界文化遺産への登録以来、なんかブ〜ムになってるという「富士登山」。 でも、ただでさえ山登りなんて大変なのに、それが日本一の山だなんて! あ〜あ、近所に登りやすい富士山があったら便利なのになぁ…ドラエも〜ん! なんて、のび太みたいなことを考えてる人たちが江戸時代にも大勢いたようです。 そんな人々の欲望を叶えてくれたのが「富士塚」。 そこで都心に残る富士塚「駒込富士神社」に登頂(?)し、気分だけでも富士登山にアタックしてみました。 そこから南へ移動すること約500メートル。 なぜかここに「吉祥寺」があります。 吉祥寺といえば何度も「住みたい街NO.1」に選ばれている超人気タウン。 それがなぜ、こんな都心にあるのか? 一体どんな関係があるのか? 江戸時代から今に伝わる、吉祥寺にまつわる“伝説”を訪ねて散策してみました。

  • 高い建物もなく空気もキレイだったその昔、富士山は江戸の町からでも難なく眺めることができました。 とはいえ富士山とは眺めるものであり、登山なんて夢のまた夢。 だがしかし! 霊峰富士に登れば霊験あらたか、あらかた望みは叶うそうな。 あぁどうしても富士山に登りたい!…という町民が江戸には結構おりました。 そこで生まれたのが「富士塚」。 富士山を模した小さな山を拵え、山頂(?)まで登ると富士登頂と同じご利益があるとかないとか。 これが人気を博して江戸の町には結構な数の富士塚が誕生。 その多くが今なお都心に残っています。 ここ駒込富士は代表的な富士塚の一つで、しかも状態良く保存された貴重な“遺構”です。

    • 正面参道の石段

      正面参道の石段

      一の鳥居をくぐって直進すると、正面に本殿へと続く石段。 その両脇には様々な石碑が立ち並んでます。 多くは江戸時代に建てられたものと推測されています。 江戸の庶民たちは本物の富士山になど簡単には行けませんでした。 そこで互いに金を出し合い、富士山の山開きに代表者を送り込みました。 で、代表以外の人たちは江戸の富士塚に登り、本物の富士山にいる代表者と気持ちを一つにして祈りを捧げたのです。

    • 石段下右脇

      石段下右脇

      手前に石灯籠、その右に富士神社の石碑。 元講とあるのは江戸時代、市民が結成した「富士講」という組織のことです。 富士講は江戸時代後期「江戸八百八講、講中八万人」と謳われるほど流行。 その中でもここには最古級の組織が存在し、町火消の間で篤く信仰されました。

    • 石段下左脇

      石段下左脇

      石灯籠の左にデン!と据えられた「駒込富士山」の石碑。 その左側には「富士浅間神社」の石碑が建っています。 富士浅間神社とは駿河(静岡県富士宮市)にある富士山本宮浅間大社のこと。 天正元(1573)年、本郷村の名主が夢の中で木花咲耶姫命[このはなさくやひめのみこと=富士山本宮の祭神]の姿を見ました。 そこで翌年、駿河から富士浅間神社を勧請したのが駒込富士神社の起源です。

    • 石段下左脇の更に左

      石段下左脇の更に左

      「駒込富士山」の石碑の背後には「れ組」や「鳶中」といった火消頭の組長や鳶職が奉納した石碑が立っています。 更にその左側から山頂の鳥居付近を見ると、石で組まれたらせん状の登山道らしきものが確認できます。 しかし崩落の危険があるので、実際に歩いて登ることはできません。

    • 石段右側の下

      石段右側の下

      雨に穿たれて原型を留めていない石仏が鎮座しています。

    • 石段左側の下

      石段左側の下

      石仏から視線を左に向けると、なんかユニークな石碑。 江戸時代の町火消のシンボル「纏[まとい]」があしらわれています。 この石碑は江戸時代から石碑にあった図案に最近彩色したものと思われます。

    • 石段右側の上

      石段右側の上

      こちらも纏がデザインされた石碑。 しかし、なぜ火消し関係の石碑が多いのか? それは富士神社に祀られている神様、木花咲耶姫命が火山である富士山の精霊だから。 火山の神様に願をかけることで火事が起こらないことを祈ったわけです。

    • 石段左側の上

      石段左側の上

      視線を左へ移すと、こちらにも纏がデザインされた石碑。 その上には町火消「九番組」の石碑です。 左右に延びるらせん状の登山道が、下から上へ一直線に貫く石段で寸断されています。 江戸時代この石段は存在せず、最近になって設置されたせいでしょう。

    • 石段頂上右側

      石段頂上右側

      いよいよ「山頂」に到着! 右手には、やはり纏をあしらった石碑がお出迎え。

    • 我れ富士山登頂に成功せり!

      我れ富士山登頂に成功せり!

      石段を登り切ると二の鳥居、その奥に本殿、コンクリート製の素っ気ない建物です。

    • 登山道の名残?

      登山道の名残?

      本殿の後ろ側をグルリと取り囲むように狭い通路が通っています。 今はほとんど消えてしまった往時の登山道の痕跡なんでしょうか? どこか、そんな雰囲気が漂っています。

    • 本殿の右側に立つ石碑

      本殿の右側に立つ石碑

      裏に「文政六 癸未 五月吉日」とあります。 西暦にすると1823年に建てられたものでしょう。 今から190年ほど前かと思われます。

    • 境内東側の摂社「小御嶽社」

      境内東側の摂社「小御嶽社」

      富士山のことを別名「富嶽」ともいいます。 「御嶽」とは富嶽の頭に御を付けた敬称でしょうかね。 この祠の前から、もう1本の石段が麓(?)まで続いています。

    • 東石段右側の中ほど

      東石段右側の中ほど

      ところで、初夢の縁起物として有名な「一富士、二鷹、三ナスビ」は、ここ駒込富士神社一帯を謳ったものと伝わっています。 鷹とは現在の駒込病院の場所にあった鷹匠屋敷に因んだもの。 ナスビとは富士山の山開きに開かれる縁日のお土産として有名だった「駒込茄子」のこと。 しかし現在では宅地化の影響で全く生産されていないそうです。

    • 東石段右側を下から

      東石段右側を下から

      真ん中の縦に細長い石を境に、左右に細い道が通っています。 らせん状の登山道の痕跡がハッキリ残ってます。 登山道は草ボウボウですが、路面の石組みは今も健在なのが分かります。 ただ、いつ崩壊するか分からないので、この上を歩くのは怖いですね。 ていうか、もとより立ち入り禁止ですけど。

    • 麓に下りて山裾を歩く

      麓に下りて山裾を歩く

      東石段を下り切って麓に降り、山裾を先ほどの石段方向へ。 登山道の入り口はココかと思われます。 道の先には木の柵で塞がれた謎の洞窟が! 防空壕でしょうか? それとも奥に秘仏でも? それは…分かりません。 よく地面を観察してみると敷石だけでなく溶岩らしきものも散見されます。 講で本物の富士山に登った人が持ち帰ったものかもしれませんね。

    • 入り口(?)の左側

      入り口(?)の左側

      石碑の「加州」とは米カリフォルニア州ではなく加賀州=現在の石川県南部のこと。 駒込富士神社、最初は本郷に建立されました。 その土地が寛永5(1628)年に加賀藩前田家へ下賜されるに当たり、一時的に屋敷外の本郷本富士町へ遷座。 その後、現在の鎮座地に合祀されました。 こうした歴史的経緯から「加州」前田家に篤く庇護されていたそうです。

    • 境内の隅っこから見た全景

      境内の隅っこから見た全景

      いよいよ富士登山も終わりに近づいております。 境内の隅っこに移動して、駒込富士の全景を眺めてみます。 昔の登山道を実際に歩くことは残念ながら現在できませんが。 でも最近では富士登山が流行してますから。 アトラクションとしての現代版「プチ富士登山」があってもいいんじゃないでしょうかね?

  • 駒込富士神社の鳥居と道を挟んだ向かい側にあるカフェ。 カフェというより「珈琲店」と呼んだほうが相応しいかも。 店名の由来は「すべてにおいてちゃんとしよう」から。 看板メニューのコーヒーはもちろん、お店で出す菓子類も材料に至るまでこだわり抜いているのが特徴です。 営業時間は午前10時から午後7時。 定休日は毎週月曜日と第2日曜日です。

  • JR中央線沿線に「吉祥寺」という駅があります。 「住みたい街NO.1」に何度も選ばれている超人気タウン。 ですが武蔵野市吉祥寺に「吉祥寺」という寺は存在しません。 じゃあどこにあるかというと…なぜか文京区にあるのです。 武蔵野市と文京区の「吉祥寺」…何の関係もなさそうでいて、さにあらず。 これがまた奇妙な縁で結ばれておるのです。 その原因となったのが「明暦の大火」。 明暦3(1657)年1月18〜19日、2日間にわたって江戸全域を焼き尽くした江戸時代最大の火災です。 江戸城の天守閣にも飛び火して焼け落ち、それ以降再建されることはありませんでした。

    • 武蔵野市の吉祥寺は史上最悪の大火事が産み落とした街 !?

      武蔵野市の吉祥寺は史上最悪の大火事が産み落とした街 !?

      明暦の大火で吉祥寺の門前町も焼失。 幕府は火事の延焼を防ぐため市中に広い空間を設けます。 このため、焼け出された門前の住人たちに現在の武蔵野市への移住を斡旋。 吉祥寺に愛着を持つ住人たちは移住先に「吉祥寺村」と名付けます。 これが武蔵野市「吉祥寺」の地名の由来となりました。 ちなみに「吉祥寺」という寺号ですが、太田道灌が江戸城築城の際に掘った井戸から出てきた刻印「吉祥増上」に由来するそうです。

    • 江戸時代最大のミステリー「振袖火事」

      江戸時代最大のミステリー「振袖火事」

      明暦の大火は別名「振袖火事」とも呼ばれます。 麻布の質屋の一人娘で齢16の梅野。 上野池の端で見かけた美少年の寺小姓に一目惚れ。 以来、寝ては夢、起きては幻の恋煩い。 両親が声をかけてもため息ばかりという毎日。 食も細くなり痩せていく一方の梅野を心配した両親は、手を尽くして小姓を探しますが見つかりません。 やむなく「せめて同じ柄の着物だけでも」と振袖を仕立て梅野にプレゼント。

    • 梅野の振袖が、きのの葬式で帰ってきた!

      梅野の振袖が、きのの葬式で帰ってきた!

      しかし梅野は翌年、17歳という若さで亡くなります。 両親は本妙寺というお寺で、棺を振袖で覆いお葬式。 葬いが終わると本妙寺の僧侶は振袖を古着屋に売り払います。 江戸時代、振袖は非常に貴重品だったので、不要なら古着として流通させるのが当たり前でした。 この振袖を入手したのは上野の紙商人の娘きの。 翌年、梅野の命日に当たる日、今度はきのの葬式が本妙寺で行われます。 奇しくも梅野と同じ17歳でした。

    • 2度あることは3度ある!この振袖は呪われているのか?

      2度あることは3度ある!この振袖は呪われているのか?

      僧侶は棺に掛けられた振袖を同様に売り払います。 その翌々年の同月同日、今度は本郷元町の粕屋喜右ェ門の娘いくの葬式が行われました。 いくもまた梅野、きのと同じ17歳。 もちろん棺の上には、あの振袖が…。 さすがに3度目ともなると住職も「これはおかしい…」とビビリます。 3人の娘の親と相談し、親たちが施主となり、明暦3年正月18日、寺内で振袖を護摩火に投じ焼いて供養することに決めました。

    • 梅野の心に灯された恋の炎が、江戸の町を壊滅させた大火事の種火だった!

      梅野の心に灯された恋の炎が、江戸の町を壊滅させた大火事の種火だった!

      噂を聞きつけた大勢の江戸ッ子たちが押し寄せ境内は超満員! 当日は風が強くて住職は逡巡するも、これだけ観衆が集まると止めるに止められず。 意を決し、振袖を火の中へ投げ込みました。 その瞬間、北の空から一迅の竜巻が吹き抜け、火の付いた振袖を上空へと巻き上げました。 まるで人の立ち姿のように舞い上がった振袖は本堂の真上へ。 紅蓮の炎は折からの狂風に煽られ、江戸の町を呑み込んでいったのでした。 おしまい。

    • 狛犬に乗った少年

      狛犬に乗った少年

      というわけで明暦の大火と吉祥寺、直接関係あるわけではありませんけど。 出火原因には幾つか説があるのですが、この振袖説は創作というのが一般的な見方。 本妙寺と隣接する幕府のお偉いさん家が火元だったのを誤魔化すため、このような物語を創作して広めたという説が有力です。 さて、参拝しようと本堂に向かったら、狛犬の上に少年が跨っていました。 狛犬に乗った少年… 何かの謎かけだったんでしょうかね?

    • 二宮尊徳翁の墓碑

      二宮尊徳翁の墓碑

      歴史ある名刹だけに、境内には幾つかの見所があります。 この立派なお墓は二宮尊徳翁の「墓碑」。 小学校の校庭には一昔前、薪を背負って本を読む二宮金次郎の像が立っていたものです。 尊徳翁は安政3(1856)年10月20日、今市(現日光市)で70歳の生涯を閉じました。 その墓が吉祥寺にある理由。 それは遺族の都合によるところが大きいそうです。

    • 小出浩平先生顕彰歌碑

      小出浩平先生顕彰歌碑

      経蔵の前に立つ、童謡「こいのぼり」の作曲者、小出浩平の歌碑です。 専業の作曲家というより、音楽教育家だったようです。

    • 経蔵

      経蔵

      いわゆる「図書収蔵庫」で、現在の建物は二代目です。 先代は貞享3(1686)年に建造され、安永7(1778)年に焼失。 焼け残った礎石をもとに古式伝統に則り、文化元(1804)年に再建。 昭和8(1933)年に大修復が行われ、現在に至っています。 吉祥寺は東京大空襲でほとんど焼け落ち、戦前から残る建造物は経蔵と山門だけだそうです。

    • 吉祥寺といえば…八百屋お七!

      吉祥寺といえば…八百屋お七!

      いよいよ吉祥寺散策もクライマックス。 鐘楼を眺めつつ、日の暮れかけた境内に別れを告げます。 ところで、吉祥寺といえば明暦の大火とは別の、もう一つの大火事「天和の大火」とも所縁があります。 それは「八百屋お七」なる物語。 井原西鶴が「好色五人女」で取り上げ、全国的に広まりました。 最近でもNHKが前田敦子の主演でドラマ化しているほど、おなじみのストーリーです。

    • お七・吉三郎比翼塚

      お七・吉三郎比翼塚

      天和2(1682)年12月、本郷の八百屋市左衛門一家は火事で焼け出され、吉祥寺に避難しました。 そこで娘お七は寺で働く小姓の吉三郎に一目惚れ。 火事も収まり一家は本郷へ戻るのですが、お七の恋心は鎮火しません。 参道に「お七・吉三郎比翼塚」があります。 比翼塚とは相愛の男女や心中した男女を葬った墓のこと。 ただし、お七の墓は白山の円乗寺にあり、ここの比翼塚は文学愛好家が建立したものです。

    • 「八百屋お七」の物語(完結編)

      「八百屋お七」の物語(完結編)

      吉三郎に逢いたくてたまらないお七は思い詰めます。 「もう一度火事になったら吉三様と逢えるかも…」 翌年、お七は新築された我が家に火を放ち、本郷は再び紅蓮の炎に包まれます。 その年の春、お七は捕えられ、市中引き回しの上、鈴ヶ森で火炙りの刑に処せられます。 まだ16歳という若さでした。 …というお話ですが、多分に脚色されてる模様。 そもそもお七が実在したのかどうか自体、実はよく分かってないそうです。

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