
はいさ~い!大阪で沖縄の風を感じて!なんくるないさ~
大阪はいさ~い!大阪で沖縄の風を感じて!なんくるないさ~
まいどまいど! 大阪には、おもろいとこがぎょうさんあるねん! それが、「リトル沖縄」。 もう、この名前、聞いただけで、めっちゃ気になれへん? 今回は、そんな”ちょっと気になる””行ってみたくなる”大阪をご案内いたします! 場所は、大阪市大正区。 皆さんも聞いたことありますやろか? まあ、まず、地元の人やないと、聞いたことあらへん。 そんな地名かもしれまへんけど、かつては、空飛ぶ飛行機の空港が存在したんやで! 名前を木津川飛行場。 大正区は、大阪湾に近く、川が流れているために地盤がゆるく、安定しなかったため、大阪国際空港(伊丹空港)に統合され、すぐに廃港になったとか。 そんな川との縁の深い大正区には、市民のバスだけやなく市民の渡し船も運行されてんねん! バスと同様に市民の足として活躍してはります。 さて、そんな大正区には、多くの沖縄県出身者が住んではります。 当時の大阪府は「大大阪」と異名を持つほどの工業都市として発展。 町中に工場の煙突が乱立していることなどから、東洋のベニス、煙の都と呼ばれたことも。 そんな一角を担った大正区には、沖縄県から多くの労働者が集まりました。
大阪環状線をぐるっとまわって、見えてくるのは、大正駅。 ここで下車し、大正通を南に走ると見えてくるのは、交差点「平尾」。 平尾が目印! なんとここには、沖縄文化が一日中楽しめるサンクス平尾商店街があるねん。 この商店街では、大阪の下町らしく飲食店や雑貨店が立ち並んではんねんけど、どこがどのように、沖縄文化が漂うてんねんやろか。 早速、商店街の中を歩いてみまひょ! お!っとその前に・・・ ご紹介しておきたい場所があるねん
シーサーと記念撮影
大阪の下町らしい雰囲気の中に紛れ込んでいるのは、沖縄県を中心に一般住宅街で見ることのできるシーサー。 もともとは、獣「獅子」のことで、家や人、村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの意味を持っている。 通常、シーサーは、手の届きにくい屋根の上に設置される場合がほとんどではあるが、人の目の高さにシーサーが設置されているのは、大阪ならでは。
商店街内は沖縄ムード一色。
サンクス平尾商店街では、大正区役所と一緒に「まちおこし」に奮闘中! 「ようこそ大正愛らんど」と書かれ、地元の買い物客や観光客を迎えいれる。
めんそーれやでサンクス平尾
シャッターにも遊び心。
商店街の入り口付近には、「沖縄風ホルモン」と書かれた黄色の看板が! 早速、沖縄を頬張ってみまひょ! う・・・うまい!
「沖縄に行ってきました~」 と、ちょっぴり人に自慢したくなるようなお土産が満載! 商店街奥で販売されている。 まずは、沖縄名物の「サーターアンダギー」。 そして、沖縄そばもご一緒に!
ぼちぼち、沖縄名物の沖縄そばを食べたいな。 あ!屋根の上にシーサー! そう。 この界隈ではいたるところに、シーサーが設置されている。 もちろん、ここではご紹介できないが、周辺の一般住宅街を歩いてみても、大阪やのに、シーサーを見つけることができる。 さあ、このお店で沖縄そばを堪能した後は、シーサーとお土産を探しに出かけよう!
沖縄そば
中華麺と同じ製法の麺を使用した日本の麺料理であり、沖縄県の郷土料理。 農山漁村の郷土料理百選に選ばれている。
平尾新田を平尾与左衛門氏らが中心となって新田開発を行った。 「亥」の年に開発されたことに因み、南恩加島抽水所付近の地名「亥開」から「平尾亥開公園」と命名。 1908年、木津川沿いにペスト患者隔離所を開設。 1909年、大阪市北区天満を中心に発生した火災「北の大火」で罹災した約22,000人の市民を収容、小学校も開設。 1914年、第一次世界大戦時、中華人民共和国に滞在していたドイツ兵等の捕虜収容所を設置。 大阪俘虜収容所では、約760人を収容し、朝夕2回の点呼確認を行っていた。 娯楽では、読書、絵画の他、音楽、スポーツなどを楽しんでいたと言う。 1917年、閉鎖後、広島県広島市に移転。
通称、大阪飛行場の規模は、約39万㎡。 1923年、水上機能と陸上機能の2種類を備えた民間の拠点空港として開港し、供用を開始。 1938年の発着回数は8800回、年間の旅客は1万人を越えた。 発着数が限界となった他、工業地帯に位置するため、付近の煙突が離着陸時に邪魔となり、地盤が弱いため大阪第一空港(大阪府堺市)、大阪第二飛行場(大阪国際空港)に移転。 方式は、クレーンで引き上げて滑走路あるいは水路に移送する方法を採用。 客室乗務員は当初、エアガール(後のシチュワーデスと呼ばれ、着物を着用した。 廃港後から空襲まで、格納庫などが残り、暁部隊が駐屯していた。
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木津川岸にある渡船場。 大正区平尾一丁目と西成区津守二丁目の約138mを結ぶ。 一日に400人が利用し、市民の足となっている。 毎年、10月下旬になると、数百羽のユリカモメが飛来し、翌年4月下旬まで楽しめる。
温泉施設である。 施設内には、深風呂、回遊風呂、ジェットバス、蒸風呂、水風呂、つぼ湯などがある。 その他、エステやリラクゼーション、軽食などが楽しめる。
人工の山として知られる「昭和山」。 標高33m。 大正時代、貯木場や製材工場が建設され、木材工業の街を形成していた。 1969年、貯木場跡地に「港の見える丘」として人工山を中心とした公園を造成。 地下鉄建設工事で出た残土を使用して山が建設された。 1976年、千島公園が開園した。 公園内にはツツジやソテツなどの亜熱帯植物などが植えられている。 大阪市内で一番高い山だったが、その後、鶴見新山が一番高い山となった。 現在は、大阪市内で2番目に高い山となっている。
大正区役所前に設置されている看板。 看板には、江戸時代に描かれた大正区内の街並みが描かれている。 浪花百景にも選出された木津川の風景を始め、当時の大坂が細かく記されている。
江戸時代初期、姫島と呼ばれ、家が三軒しかなかったことから、地名として三軒家と名付けられた。 また、三角州が点在する河口であったが、新田開発により、ほぼ現在の形になった。 1883年、大阪紡績会社が英国より日本初となる蒸気式の紡績機の輸入後、大阪は日本一の紡績工業都市となり、「東洋のマンチェスター」とも呼ばれた。 また、現在の長堀通り沿いにあった材木市場が手狭になり、千島や小林に大きな貯木場が作られた。 鶴町には自動車工場、船町には製鉄所や造船所が作られた。 これにより、近郊農村は阪神工業地帯の重工業集積地に姿を変えたと言う。 現在、大阪紡績から社名を変更し、東洋紡績となっている。
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八坂神社境内にある碑。 別名、木津勘助とも呼ばれる。 1610年、木津に移住し、姫島を開発し、木津川の工事も行った。 姫島とは、現在の大阪市大正区三軒家である。 1917年、功績を讃えて八坂神社境内に碑を建立し、業績が刻まれた。 1979年、「中村勘助之碑」が新たに建てられた。
うどん・そば・丼の専門店。 店内はカウンター席とテーブル席がある。 メニューはきつねうどんやたぬきそば、カツカレー丼、ざるそばなど。 大正区では「おきナニワんプロジェクト」の元、沖縄と大阪とを融合させた新感覚フード「おきナニワんうどん」が登場。 「おきナニワんうどん」とは沖縄の「沖縄ソバ」と浪花の「きつねうどん」がコラボ。 「おきナニワんプロジェクト」に賛同する他店舗では「おきナニワん焼き」や「おきナニワんおにぎり」、「おきナニワんホルモン焼」など。
2020年、尻無川沿いにある複合施設「TUGBOAT TAISHO(タグボート大正)」として開業。 名称の由来は大正区のまちづくりを引っ張っていくタグボート(引き船)の役割。
川の駅
施設内にはフードホール、台船レストラン、水上ホテル、ライブステージ、ワークショップ、イベントスペース、スクール、川の駅など。
沖縄そばをはじめ、沖縄料理などを味わうことができる飲食店。
沖縄名物とともに
メニューはゴーヤチャンプルーやソーキそば、ポーク玉子おにぎりなど。 物販店が併設され、食材、菓子などをはじめとする沖縄土産が並ぶ。
1915年に初めて架けられた。 初代大正橋はアーチ支間91.4mのアーチ橋で、当時日本最長のアーチ橋だった。 2008年現在は、2代目である。 1969年から1974年にかけて架け替えられた橋長80mの連続桁橋である。 大正時代に架橋されたことから「大正橋」と命名された。 橋の欄干には、ベートーベン作曲・交響曲第9番『歓喜の歌』の楽譜がデザインされている。 また歩道にはメトロノームとピアノの鍵盤がデザインされている。
大地震両川口津浪記
大地震両川口津浪記大正橋の東詰めの広場には石碑「大地震両川口津浪記」が設置されている。 これは、1854年の安政南海地震の後に発生し大阪を襲った津波の被害と教訓を記したもの。
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商店街では、飲食店や雑貨店などが立ち並ぶ。 駅からすぐにあるので、通勤・通学客や主婦などでにぎわう。 近くには、商店街を抜けた場所に銭湯があり、市民の憩いの場となっている。
うどん、そばの専門店。 店内はカウンター席とテーブル席がある。 大阪市の大正区では「おきナニワんプロジェクト」と題して沖縄と大阪を融合させた新感覚フード」が次々と誕生しました。
おきナニワんラフティーうどん
その中の一つが、おきナニワんラフティーうどん。 沖縄の「ラフティー」と大阪の「特製うどん出汁」がコラボレーション。
昔ながらの雰囲気漂う商店街。 飲食店や惣菜店、雑貨店などが立ち並ぶ。
三泉商店街
三泉商店街は、大阪市大正区の三軒家西と泉尾にまたがる。
飲食店や雑貨店が立ち並ぶ昔ながらの雰囲気漂う商店街。
大阪市内を流れる淀川水系の下流における分流で一級河川。 大阪市西区を流れる木津川と西道頓堀川が合流し、尻無川となる岩崎運河と木津川が分かれる。
尻無川
もとは松島公園付近で木津川から分かれていた。 尻無川と木津川の間の中州は寺島と呼ばれ、明治以降、松島遊郭が作られた。 尻無川の上流部は浅くて狭く航行に不向きだったため、尻無川の中流の千代崎付近と木津川・道頓堀合流点とを結ぶ岩崎運河が建設された。 1940年、防潮堤が完工している。 1952年、境川運河以北が埋め立てられ、岩崎運河が尻無川の上流となった。
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