聖徳太子と仏教の始まり
奈良聖徳太子と仏教の始まり
まいどまいど! 学校の教科書にはほぼ必ず取り上げられる「邪馬台国」「卑弥呼」「聖徳太子」というキーワード。 これらすべてのキーワードは奈良県桜井市でも見ることができますねん。 まず桜井市は邪馬台国ゆかりの地としても知られておまして、ここに邪馬台国があったんちゃうの?という有力な情報も。 また卑弥呼の墓では?とされる古墳もあり、何かと歴史を感じることができますねん。 ほんでまた聖徳太子ゆかりの地としても知られ、芸能の始まりとされる土舞台も現存。 なんやえらいごっついおもろい場所でんな。 市内中心部を伊勢神宮の参詣道(別名、伊勢参宮街道、伊勢本街道、参宮街道)が通り抜け、古くから参詣道として賑わいを見せてきたとも。 その他、仏教の始まりの地としても知られておまして市内には「仏教公伝の地」も。 奈良県桜井市の特産品の一つ「三輪そうめん」だけやない桜井市の魅力をほんの一部ですが、ご紹介していきまひょ。
伊勢神宮の参詣道として整備された街道の一つである伊勢街道。 別名、伊勢参宮街道、伊勢本街道、参宮街道。
文芸評論家。 別名、湯原冬美。 1910年生まれ。 旧制奈良県立畝傍中学校、旧制大阪高校、東京帝国大学美学科美術史学科卒業。 「コギト」、亀井勝一郎らとともに「日本浪曼派」創刊同人として活躍。 マルクス主義から後に、ヘルダーリンやシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾倒、近代文明批判と日本古典主義を展開。 処女作「日本の橋」で第一回池谷信三郎賞を受賞。 大東亜戦争を「正当化」したとされ、公職追放。 京都の鳴瀧に山荘「身余堂」を構え、以後を過ごした。 佐藤春夫は「そのすみかを以て詩人と認める」とし、東の詩仙堂と並べて「西の身余堂」と絶賛。
保田與重郞
川端康成は「詩仙堂よりも保田邸のほうがずっと優れている」と評価。 滋賀県大津市の義仲寺の再建に尽力。
桜井を中心とする観光案内地図。
桜井は古くから伊勢街道と多武峰街道が交差する交通の要衝として発展してきた。 江戸時代には藤堂藩となり、宿場町の桜井宿として発展。 魚市場や青物市でにぎわい、多くの商家・宿屋があった。 最も古い魚市場の一つとされ、吉野から多武峰を経て担いできた熊野鯖は名物の一つであった。
地域交流促進・多世代交流促進の拠点として開設された施設。 2019年、リニューアルオープン。 施設内には子育てをサポートする「ドレミの広場」や健康づくりをサポートする「健康ステーション」、子ども広場「ひみっこぱーく」などがある。
本殿には若桜神社と高屋安部神社がある。 祭神は、若桜部朝臣や阿部朝臣の祖神といわれる伊波我加利命、屋主彦太思心命、大彦命、産屋主思神。 かつて若櫻神社が鎮座し、高屋安部神社は安倍松本山(安倍文殊院)付近に鎮座していたが、遷座。 また、中世には谷城が築城されていたという。
- アプリで地図を見る
1341年、南朝方の西阿が戒重城に籠城。 北朝方の細川顕はここに陣を構えた。 1565年、松永久秀が布陣。
眺望
付近からは桜井市街地を一望できる。
土舞台は聖徳太子が深くかかわったとされ、のちに日本芸能の発祥の地として知られている。 古代チベットやインドの仮面劇として知られる伎楽は西域を経て中国に伝わった。 その舞は滑稽卑俗な類のものとされた。 土舞台は日本最初の国立劇場で、聖徳太子は国立演劇研究所をも併設して芸能文化のため尽くされたとした。
華厳宗の寺院。 山号は安倍山。 本尊は文殊菩薩。 開基は安倍倉梯麻呂。 京都府の切戸文殊・山形県の亀岡文殊とともに日本三文殊の一つに数えられる。 ちなみに「三人寄れば文殊の知恵」で知られる。 645年、大化の改新の時、左大臣として登用された安倍倉梯麻呂が孝徳天皇の勅願もあって安倍氏の氏寺として安倍山崇敬寺(安倍寺)を建立したのが始まり。 平安時代、多武峰の妙楽寺(談山神社)の僧兵によって焼失し、移転(旧寺地は安倍寺跡の史跡公園として整備)。 東大寺の末寺の一つ「崇敬寺」は安倍倉梯麻呂の建立、「崇敬寺」の別名が「安倍寺」であったとも。 鎌倉時代、崇敬寺智足院の別院・満願寺に移転。
十五大寺の一つ
安倍寺は東大寺の末寺であったため、東大寺の復興に尽力した重源上人の縁で仏師快慶の手によって本尊の文殊菩薩像が作られた。 満願寺は文殊堂ともいわれ、大和十五大寺の一つとして隆盛を誇った。 1563年、松永久秀の軍勢により焼失。 1665年、元安倍寺満願寺の本堂・文殊堂が再建。 明治時代、敵対していた多武峰の妙楽寺は廃寺、新たに談山神社となった。 その際、妙楽寺の本尊・阿弥陀三尊像を引き取った。
安倍晴明
陰陽師・安倍晴明は陰陽道の修行をしたとも。
公園内には遊具や砂場などが整備され、市民の憩いの場となっている。 かつて当地には安倍文殊院の前身にあたる安倍寺があった。 645年、大化の改新の時、左大臣として登用された安倍倉梯麻呂が孝徳天皇の勅願もあって安倍氏の氏寺として安倍山崇敬寺(安倍寺)を建立したのが始まり。 平安時代、多武峰の妙楽寺(談山神社)の僧兵によって焼失し、移転(旧寺地は安倍寺跡の史跡公園として整備)。 また、鎌倉時代に建造されたとされる平窯跡があり、安倍文殊院建立用の瓦が製造された説も。
500年代、聖徳太子によって上之宮が造営。 当初、建物は小規模であったが、大邸宅として整備されたとも。 遺構中央部の柱跡は高貴な人の建物に用いられる二重の長方形状の四面庇の大型建物遺構。 北側に長棟の脇殿を配し、東側と南側を柵列で囲み、それぞれに門が設置。 庭園部分からは日本最古の木簡が出土。 鼈甲や木器、果実の種なども出土し、桃やスモモの核が多量に出土。
- アプリで地図を見る
別名、能登宮。 祭神は、大日霊貴命、磐余明神、品陀和気命、高皇産霊神、天児屋根命。 創建時期など詳細は不明。 当初、鳥見山に鎮座。 鳥見山は初代天皇の神武天皇が即位後、皇祖神及び天津神を祀った霊畤。 初めて皇祖天神を祀ったといわれ、大嘗会の起源であり、初の舞台とも。 1112年、社殿を現在地に移転。 当社の八咫烏は人の形をしているのが特色。
逆さ紅葉
約100本の紅葉と境内の桃神池に映り込む「逆さ紅葉」が美しいと評判。
談山神社の一の鳥居から、五十二石の町石をたどって大化改新のときの中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我氏討伐を話し合ったといわれる談山神社までを結ぶ街道。 他に松尾芭蕉や本居宣長などが歩いたとも。