
大阪城の東側・鴫野ってどないなとこやねん?
大阪大阪城の東側・鴫野ってどないなとこやねん?
まいどまいど! 西日本旅客鉄道のおおさか東線または学研都市線の停車駅の一つとして知られておます鴫野駅。 大阪のビジネスの中心地のひとつ京橋駅や豊臣秀吉などの戦国武将にゆかりがある大阪城の最寄り駅・大阪城公園などは有名ですがそんな有名な駅から一駅外れた場所にはどんな名所がおますのか、皆さん、ご存知でっしゃろか。 かつては川が流れておましたがそれを新田開発したことでその名がついた新喜多新田会所や大坂冬の陣で激戦を繰り広げた鴫野古戦場がおます。 今では石碑のみが当時を語ってまんねやけど、一見の価値があると思います。 そして大阪の歴史を語るうえで外されへん名所は大阪砲兵工廠跡。 明治時代に発足し、大阪城やその周辺では軍需工場が乱立。 ピーク時には約6万人の労働者がいたといい、アジア地域では最大規模となる軍需工場へと成長。 次第に第二次世界大戦が激戦化し、標的となって姿を消しましたが、現在も大阪城公園やその周辺ではその傷跡を垣間見ることができます。 現在は住宅街やマンションが立ち並び、当時の面影は少なくなりましたが、今でも語り継がれる歴史を肌で感じてみませんか。
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楠根川は、旧大和川支流の玉串川から分流した川。 1960年代、第2寝屋川開削により、埋め立てられ、その跡地は道路、公園、楠根川跡緑陰歩道として整備された。 今では、せせらぎ、庭園、植栽が配置され、緑豊かな遊歩道として親しまれている。 噴水、滝が楽しめ、川底には金魚をかたどったライトが点灯する場所も。
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1704年、旧大和川の河川敷跡に開発された新田。 都島区東野田付近から城東区、東大阪市高井田までの地名であった。 新田開発を担ったのは、鴻池新十郎、鴻池喜七、今木屋多兵衛ら。 それぞれの名前から新喜多と呼ぶようになった。
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祭神は、スサノオ、大国主、日本武尊などである。
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1614年、豊臣方と徳川方は、大坂冬の陣の際、最大の激戦地となったとされる。 当時、この付近は、冬の陣の主戦場となったが、地形的には旧大和川の支流が分流して深田が多く、大規模戦闘には不向きであったと言う。 双方は銃撃戦を繰り返し、初陣は木村重成と後藤又兵衛が共に臨んだが、決着がつかず、夏の陣を迎えることとなる。
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大阪市城東区にある商店街。 駅前なので、通勤客・通学客でにぎわっている。 主に、飲食店や雑貨店などがある。
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春になると、桜の通り抜けが見ごろを迎える。 また、中浜せせらぎの里は、せせらぎや水の音を楽しむ水琴窟(すいきんくつ)、芝生広場、明治時代のレンガ積みの下水管も展示している。
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祭神は、菊理媛神である。 創建時期などの詳細は不明である。 1603年、豊臣秀頼によって再建された。 1609年、片桐市正の検地の際、除地となっている。 1614年、徳川家康による大阪の役で、社殿などは焼失。 1617年、大阪城在番城代の内藤紀伊守によって再建された。 1872年、白山神社と改称した。 また、中浜だんじりとしても知られている。
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ダイニングバーとしても人気の創作ダイニングカフェ。 店内はカウンター席とテーブル席がある。 また、テイクアウトも可能。 メニューはランチタイムの場合、日替わり定食や刺身定食などがある。
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1871年、大日本帝国陸軍建設の指揮を揮った兵部大輔大村益次郎の建言により、軍隊組織が発足した大日本帝国陸軍の兵器工廠(造兵廠)跡地。 幕府の長崎製鉄所の機械及び技術者、職工を移設して兵部省直営の大阪造兵司を設置、大坂城青屋口門内中仕切元番所を仮庁として事務を開始。 1875年、大砲製造所と呼ばれるも砲兵第二方面内砲兵支廠(東京は第一方面内本廠)と改称。 砲兵工廠条例の制定に伴い陸軍省達乙七四号より大阪砲兵工廠に改称、陸軍造兵廠令によって陸軍造兵廠大阪工廠に改称。
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最大工員数は約6万4000人
敷地は大坂城三の丸米蔵跡であったが、玉造口定番下屋敷跡地、大阪ビジネスパーク内の京橋口定番下屋敷跡地、城東錬兵場(西日本旅客鉄道森ノ宮電車区、大阪市高速電気軌道森之宮検車場、森ノ宮団地等へ拡張。 最大工員数は約6万4000人(民間工場従業員数を含めると20万人とも)。 1945年、陸軍唯一の大口径の火砲を主体とする火砲・戦車・弾薬類など兵器の製造を担ったアジア最大規模の軍事工場であった。
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大阪砲兵工廠で製造
当時、日本最先端技術を持っていた為、軍需以外に鋳鉄管や橋梁といった民需も受注。 東京・靖国神社の青銅製の第二鳥居は、大阪砲兵工廠で鋳造、青銅製の鳥居として日本一の大きさを誇る。 日本で初めて製造された鋳鉄管を用いた大坂城天守閣南西側の内堀に架かる水道管(現役)も、大阪砲兵工廠で製造。
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