ただものではない?天領信州中野の歴史を感じる旅
長野ただものではない?天領信州中野の歴史を感じる旅
江戸幕府の直轄領「天領」であり、明治の一時期には県庁がおかれたこともある信州中野。国指定重要文化財「銅戈、銅鐸」が出土した柳沢遺跡をはじめとする数々の遺跡があるなど、古くから人々の生活をはぐくんできたところです。 志賀高原に源を発する夜間瀬川の扇状地に広がる市街地は、谷街道と草津街道の結節点に位置し、交通の要所、北信州の中心都市として発展してきました。 小布施や志賀高原といった有名観光地に隣接していながら、いまひとつ存在感が薄い(ない?)といわれていますが、実は知られざる歴史がある「ただものではない」まちなのです。 そんな歴史をたどるまちあるき。意外なグルメも楽しめます。
ただものではない歴史スポットその1 江戸時代には「中野陣屋」が、明治初年には「中野県庁」が置かれていました。現在は記念館として当時の歴史資料や収蔵美術品が展示されているほか、有志の絵画等の展示も随時実施しているなど文化的活動の拠点となっています。 現在の建物は、昭和11年に中野町役場庁舎として建てられたもので、昭和39年には県史跡に指定されました。 施設西側には、陣屋前広場があり駐車できますので、ここがまちあるきの起点となります。
柳並木
陣屋へ向かう道は石畳で、しだれ柳が植えられています。
展示室
県庁が長野市に移るきっかけとなった、中野騒動を中心に、陣屋にまつわる歴史が展示されています。 中野陣屋は北信濃約5万石を治め、信州の天領では最大でした。大政奉還により中野陣屋が廃止、明治3年(1870年)には、東北信の旧天領を管轄する中野県庁がおかれました。しかし、その12月に中野騒動が起こり、激しい暴動の中で庁舎は焼失、町も焼け野原となってしまい、翌年7月、中野県は廃止となりました。
カフェ・陣屋
館内には「カフェ・陣屋」があり、木のぬくもりあふれるカフェで、ゆったりとした時間を感じながらのコーヒータイムを楽しむこともできます。
ただものではない歴史スポットその2 記念館の北隣、「天領陣屋跡」の大きな石碑がある料亭、柳長。石碑の揮毫は徳川家18代当主徳川恒孝氏です。 明治5年(1872年)に創業、同34年に近郷の豪農などの協賛により現在地に増築された由緒あるお店です。庭園には、陣屋当時の姿が残されています。 営業時間 11:00〜23:00(要予約) 定休日 不定 駐車場 10台 お問い合わせ 0269-26-3024
この井戸があるところまで中野陣屋の敷地でした。現在残っている当時の中野陣屋の遺構は、この井戸と陣屋県庁記念館西側の石積みだけです。 横に流れる用水は、「疎水百選」に選ばれている八ヶ郷用水です。
明治5年(1872年)学制がしかれてから研智学校として使用された日蓮宗鈴泉寺の総門は、中野陣屋の門を払い下げて再建したものといわれています。
信州中野は異なる流れをくむ二つの系統の土人形(中野人形・立ヶ花人形)が、昔ながらの伝統技法で現在も同一地域で製作されている全国的に見ても類がない地域です。 この施設では、土人形の絵付け体験が楽しめるだけでなく、型抜きから製作体験できます。土をこねるところから完成まで手掛ければ、まさに世界でたった一つの土人形に。 「まねきねこ」のようなおなじみの人形もありますよ。 開館時間 9:00~17:00 休館日 水曜日 年末年始 入館料 無料
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中町天満宮は、奈良家の敷神様で、昔から氏子総代などを決めて例祭を実施し、信仰を集めていました。 初代奈良栄吉が京都から人形型を持ち帰り、人形作りを始めたところで、中野土人形の発祥地です。
ただものではない歴史スポットその3 中町天満宮に向かう小径には白壁の土蔵があり、歴史を感じさせる場所となっています。写真の場所から南にある、青木屋さんは老舗の呉服店で、明治中頃、日本にガス灯がついたとき、時をたがわず青木屋総本店にも灯されたといわれています。
ただものではない歴史スポットその4 信州の善光寺といえば長野市の善光寺ですが、千曲川を挟んで西側(長野市)を川西善光寺、東側(中野市)を川東善光寺と称して古くから信仰されてきました。 南照寺本尊の金銅製阿弥陀三尊像は阿弥陀如来と脇侍の観音菩薩、勢至菩薩からなり、大和時代に三国伝来の秘仏と伝えられています。 現在の本堂は文化8年(1811年)に再建されたもので、撞木造(長野の善光寺と同じ形式の屋根)となっています。
南照寺越しの高社山
陣屋前広場前から北方向、高社山を望むと、南照寺が正面に見えます。
南照寺へ向かう小道
中町上交差点から西へ向かい、30mほど進んだところにある裏通りです。古くからの家並みが残り、明治期の水路(八ヶ郷用水)にきれいな水が流れています。
ただものではない歴史スポットその5 明和元年(1764)創業の「袋屋」は、味噌・醤油の醸造を営む商家として発展し、現在も味噌販売をされています。 「清左衛門醸造」として受け継がれた家伝の味は、「陣屋みそ」の名で人々に親しまれています。 俳人小林一茶が袋屋を訪れるようになったのは、文政5年(1822年)ごろからといわれています。50歳を迎え古里の柏原へ帰郷し、度重なる不幸に見舞われながらも俳諧の道を築き上げ65歳で亡くなるまでの6年間、袋屋へ頻繁に出入りしました。一茶が愛した庭園には、彼がひっくり返ってもの思いに耽ったといわれる「一茶の座禅石」があります。
ただものではない歴史スポットその6 別名「バラ公園」とも呼ばれ、バラの時期には何万人もの観光客が訪れる人気のスポットですが、実は知られざる歴史があります。 中野市は、かつてビールの原料であるホップの生産が盛んで、一時は栽培面積日本一を誇りました。一本木公園の敷地は昭和17年から昭和52年までアサヒビールのホップ乾燥所があった場所で、園内には「信州忽布発祥乃地」の碑があります。 ちなみに、市内にはもう一か所サッポロビールの作業所がありました。その場所は現在、中野地域職業訓練センターになっています。
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天正11年(1583年)上杉景勝の寄進によって養父上杉謙信の菩提を弔うために再興されたといわれています。 境内に入るとまず仁王門があり、仁王尊及び風神雷神の4体が安置されています。仁王門と本堂との間には羅漢殿があり、ひな壇状に五百羅漢が安堵されています。 現在の本堂は文政2年(1819年)に再建され、欄間は名匠立川富種の作「二十四季」、ウグイス張りの廊下や謙信公の木造などがあります。 墓地には、中野騒動で惨殺された中野県庁の門番島野半蔵の墓碑があります。
ただものではない歴史スポットその7 中野騒動で町の大半が焼けてしまったことから、明治6年(1873年)、復興のため、常楽寺の南に八ヶ郷用水を利用した水車を動力とする中野製糸場が設置されました。 その規模の大きさと、近代的な製糸施設において、群馬県の富岡、福島県の二本松とともに我が国3大製糸場の一つに数えられたといわれています。残念ながら、経営がうまくいかず、現在、製糸場をしのばせるものは残っていません。 この写真は、日本画家関長年(1813~1877)が描いた絵(中野市指定有形文化財)です。
ただものではない歴史スポットその8 桜の老木が続く仁王門をくぐると最初に見えるのが霊閑寺の無相大師祖堂です。 ここは、高梨家に生まれた臨済宗妙心寺派の開祖、無相大師の六百年忌を記念して建立されたもので、霊閑寺は京都妙心寺・岐阜県正眼寺とともに三大霊地のひとつに数えられています。 5月にはつつじが咲き誇ります。
東山公園
霊閑寺がある一帯は東山公園として整備されており、春は桜の名所として知られ、アジサイも楽しめます。 花見の時期に、茶屋で売られる「あげまんじゅう」が有名です。
如法寺(大悲閣観音堂)
東山公園の石畳の道を登っていくと、如法寺。真言宗智山派で、弘法大師が真如法親王を派遣して創建したと伝えられています。京都清水寺に似た懸崖造りの舞台も見事な大悲閣観音堂(市指定文化財)があります。
日本土人形資料館
霊閑寺に隣接する日本土人形資料館では、中野土人形をはじめ、全国の土人形、土鈴収集第1人者の石山邦子氏から寄贈いただいた土鈴を所蔵、展示しています。それぞれの地で長い間生きてきた人形は、可憐で愛らしく、訪れる人々に潤いと安らぎを与えてくれます。
ただものではない歴史スポットその9 高梨館跡は、鎌倉時代から戦国時代にかけて活躍した、北信地方の有力武士団高梨氏により築造されたと推測される中世の館跡です。 高梨氏は、世に名高い川中島の合戦で、上杉軍の先陣を務めたといわれています。 平成19年に国指定史跡となり、現在は公園に整備され、桜の名所としても親しまれています。天下一の桜として有名な、伊那市の高遠城址公園に植えられているのと同じタカトオコヒガンザクラが、平成6年に旧中野市制施行40周年を記念して当時の高遠町から特別に寄付され植樹されています。