明日香村で飛鳥を感じて
奈良明日香村で飛鳥を感じて
まいどまいど! 奈良県っちゅうたら奈良市内におます平城京が有名かもしれまへんけど、かつて明日香村も日本の政治・経済の中心地やったんですね。 現在の日本の政治・経済の中心地は東京でんねんけど、はるか昔の400年代には橿原市に藤原京。 592年から710年までの間、明日香村には飛鳥京が置かれ、政治、経済の中心地やったんですね。 平城京が機能したのは710年から784年の間。 そういう意味では日本の歴史上、明日香村という場所は切っても切られへん、そんな貴重な場所として知られてまんねん。 現在、明日香村には当時の建物はなく、遺跡だけが当時を物語ってまんねん。 そんな中、蘇我馬子と深い縁を持つ橘寺は聖徳太子が生まれた場所として知られ、今も観光客が絶えない場所となってまんな。 その他、飛鳥寺では飛鳥大仏と呼ばれる貴重な大仏もあり、観光客に人気もスポットともなってまんねん。 さあ、次回の休日は奈良県明日香村に出かけまひょ!
近畿日本鉄道(近鉄)吉野線の停車駅の一つ。 1929年、吉野鉄道の岡寺と壺阪山間で橘寺駅として開業するも大阪電気軌道が吉野鉄道を合併、大阪電気軌道吉野線の駅となる。 1941年、大阪電気軌道と参宮急行電鉄が合併し、関西急行鉄道の駅となる。 1944年、関西急行鉄道が南海鉄道(南海電気鉄道の前身)と合併、近畿日本鉄道吉野線の駅となる。 1970年、飛鳥駅に改称。 16600系特急用車両と26000系特急用車両「さくらライナー」の車内放送チャイムは、アイルランド民謡の「春の日の花と輝く(英語版)」。
明日香村やその周辺の観光案内や情報発信を行っている。 また明日香村の魅力を五感で体感できるフィールドミュージアム「明日香まるごと博物館」、飛鳥地方のエントランス(玄関口)として、特別史跡・石舞台古墳や飛鳥美人が描かれた高松塚古墳壁画など飛鳥時代の歴史資産群や手荷物預かりサービス、周遊バス(かめバス)、レンタサイクル、超小型電動自動車などの案内も行っている。
明日香村やその周辺で採れた野菜や果物、お土産を中心に販売する直売所。
天台宗の寺院。 正式名称は仏頭山上宮皇院菩提寺。 本尊は聖徳太子・如意輪観音。 創建時期など詳細は不明。 寺名の由来は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来。 橘寺の付近は聖徳太子が生まれた場所とされ、当寺は聖徳太子建立七大寺の1つとも。 太子は父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まり。 発掘調査の結果、当初の建物は東を正面に中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ四天王寺式または山田寺式の伽藍配置。 8世紀、堂宇66が立ち並び、皇族・貴族の庇護を受けて栄えた橘寺であった。 1148年、五重塔が雷で焼失し、1190年頃に三重塔として再建。
橘寺
1506年、室町幕府管領細川政元の家臣赤沢朝経による多武峰妙楽寺(談山神社)攻めの際、橘寺の僧が赤沢軍に与した。 1864年、多武峰の衆徒によって焼失し、衰退するも聖徳太子ゆかりの寺として信仰を集め、本堂の太子堂が再建。
宗派は真言宗豊山派。 蘇我氏の氏寺である法興寺の後身。 本尊は釈迦如来、通称、飛鳥大仏。 開基(創立者)は蘇我馬子。 山号は鳥形山。 寺号は安居院。 法号は法興寺、元興寺。 588年、百済から日本へ僧と技術者(寺工、鑢盤博士、瓦博士、画工)が派遣。 飛鳥の真神原の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉の邸宅を壊して法興寺の造営を開始。 700年頃、蘇我氏の氏寺として造営、伽藍を備えた日本最初の本格的な仏教寺院。 蘇我馬子は排仏派の物部守屋と対立し、蘇我馬子は守屋との戦いに際して勝利を祈念。 発掘調査の結果、当初の飛鳥寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認。
飛鳥寺
天皇は皇太子(聖徳太子)、大臣(馬子)、諸王、諸臣に詔して、銅と繡の「丈六仏像各一躯」の造立を誓願し、鞍作鳥(止利)を造仏工とした。 高麗国の大興王から黄金三百両が貢上。 862年の太政官符で「聖教最初之地也」と評されるように、飛鳥寺は仏教隆昌の中心地に。 漂流した百済僧道欣ら、高句麗僧の慧灌、呉人の僧福亮、智蔵が相次いで入寺。 都が平城京に遷都すると飛鳥寺も奈良市に移転して元興寺となった。
飛鳥時代、飛鳥の地に営まれた諸宮を中心とする複数の遺跡群からなる都市遺跡遺跡。 飛鳥古京跡とも称する。 宮殿のほか朝廷の支配拠点となる諸施設や飛鳥が政治都市であったことに関わる祭祀施設、生産施設、流通施設などから構成。
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