根来衆と和歌山の歴史
和歌山根来衆と和歌山の歴史
まいどまいど! 和歌山県の歴史を語るうえで必ずと言っていいほど歴史に登場するのは根来衆の存在。 根来衆は「根来衆」と読み、少々、難読のようにも感じるが、大阪で勃発した大阪の陣や関ヶ原の戦いにおいても根来衆は重要な立場であったとか。 今も根来寺として注目を集める和歌山県岩田市の街を散策してみてはいかがでっしゃろか。
新義真言宗総本山の寺院。 山号は一乗山大伝法院根来寺。 本尊は大日如来・金剛薩埵・尊勝仏頂の三尊。 開山は覚鑁(興教大師)。 平安時代、学僧・覚鑁が高野山に伝法院、大伝法院、密厳院を建立、金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄。 鳥羽上皇は覚鑁に帰依、保護。 覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ち(錐もみの乱)が勃発、拠点を豊福寺に移転、円明寺を伝法会道場として院家が建立、一山総称・根来寺として形成。
根来寺僧
1288年、大伝法院の学頭・頼瑜は大伝法院の寺籍を移し、大伝法院の本拠地は根来に移った。 室町時代、一大宗教都市を形成、根来衆は僧衆(僧兵)は一大軍事集団となった。 根来寺僧によって種子島から火縄銃一挺を持ち帰り、僧衆による鉄砲隊を形成し、織田信長の石山合戦に協力。
関ケ原の戦い
羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦いでは徳川方につき、岸和田城を襲撃、南摂津への侵攻を図り、秀吉の雑賀攻め(紀州征伐)を招く。 1585年、近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに敗れ、秀吉軍は根来寺に到達、寺は焼失。 大伝法堂は秀吉によって解体、部材は大坂の中津川沿い(大阪市此花区伝法)で放置。 関ケ原の戦い後、徳川家康は東山の豊国神社の付属寺院の土地建物を塔頭智積院の住職であった玄宥に与えて智積院は再興。
紀州徳川家
大坂の陣後、秀吉が鶴松を弔うために建立した祥雲寺が家康によって根来寺に寄進、智積院が譲り受けた。 江戸時代、紀州徳川家によって復興、東山天皇より覚鑁上人に大師号「興教大師」が下賜。 大塔(大毘廬遮那法界体性塔)の本尊・胎蔵大日如来で、日本最大の多宝塔。 一乗閣は1898年に建設された旧和歌山県会議事堂の建物で、根来寺境内に移築。
和歌山県道63号泉佐野岩出線沿いにある道の駅の一つ。 施設内には農産物・特産物販売所をはじめ、情報コーナー、休憩コーナーなど。