天空の城!?備中松山城
岡山天空の城!?備中松山城
まいどまいど! 天空の城として名高い備中松山城は臥牛山頂にあり、現存する天守を持つ山城としては最も高い所に位置する日本三大山城の一つとして知られてまんねやて。 山頂付近には駐車場、そして、天守閣付近には展望台も整備され、城下町やその周辺を一望することができまんねん。 山麓には城下町がおまして、藩主の御殿や家来の武家屋敷が集まる「御根小屋」を構え、藩の政務を行ってはったとか。 昔ながらの雰囲気漂う城下町を歩くと、テレビドラマや映画で撮影に使用したというロケ地がぎょうさんおまして、記念撮影で楽しむ観光客の姿も。 ほんでまた、城下町には学校が点在し、平日には学生の街としての賑わいを見せつつ、休日になると静かな雰囲気が漂い、観光客でにぎわってまりまっせ。
別名、高梁城、備中松山城。 日本100名城(68番)の一つ。 標高430mの臥牛山頂にあり、現存する天守を持つ山城としては最も高い所に位置する日本三大山城の一つ。 山麓の城下町には藩主の御殿と家来の武家屋敷が集まる「御根小屋」を構え、藩の政務を行った。 1240年、秋庭三郎重信が備中有漢郷(岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に築城、高橋宗康が城を拡張。 戦国時代、三村元親は大松山・小松山を範囲とする一大城塞とした。 1570年、元親が備中に兵を進めた宇喜多直家を迎え撃つために出撃した際、直家と通じた庄高資・庄勝資親子に松山城を占拠されたが穂井田元清の協力により庄高資を討ち、松山城を奪還。
江戸時代まで
1574年、元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返ったため、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。 城は毛利方の小早川隆景により落城、元親の没後、毛利氏の領有となった。 1600年、関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につくも敗戦、徳川幕府が城番(小堀正次・政一)を置き、麓に御根小屋が築かれた。 1617年、池田長幸が入城、2代長常が嗣子なく没し、廃絶。
廃城まで
1642年、備後福山藩主の水野勝成家臣が城番となり、水谷勝隆が入封するも水谷家は断絶。 赤穂藩主・浅野長矩の家老・大石良雄が城番となった。 1868年、戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者・山田方谷の決断で無血開城。 1873年、廃城令が公布されて御根小屋は廃止、山城は商家に売却。
日本の私立大学の一つである吉備国際大学高梁キャンパス内にある歴史資料館。 1895年、擬洋風建築として竣工。 1959年、順正寮跡として岡山県指定史跡に指定。 1881年、岡山県内では初の女学校として開校。 設立には、女紅場(裁縫所)を開いた福西志計子が携わった。 岡山県順正高等女学校、岡山県立高梁高等学校へと改称。 施設内では、学園創立者の加計勉、順正女学校設立者の福西志計子、儒家で陽明学者の山田方谷、岡山孤児院を創設「児童福祉の父」との異名を持つ石井十次などを紹介。
宗派は臨済宗永源寺派の寺院。 山号は天柱山。 本尊は聖観世音菩薩。 通称、備中国の安国寺。 中国より帰国した寂室元光禅師(正燈国師)を迎請、開山第一祖。 1500年代、備中松山城城主・上野頼久が大檀越となり寺景を一新。 1521年、寺号を安国頼久寺に改称。 1600年、関ヶ原の戦いで活躍した小堀正次の子・政一(小堀遠州)が継承。 備中松山城は備中兵乱後で荒廃し、当地に居住。 庭園は蓬莱式枯山水庭園、借景は愛宕山。 上野頼久、三村家親、三村元親、勝法師丸にゆかりがあるとか。
江戸時代の旧武家屋敷や土塀が現存する岡山県指定の町並み保存地区。 江戸時代、備中松山藩の初代藩主となった池田長幸の時代に城下町として整備され、武士の屋敷が建ち並んでいたとか。 1874年、地域名を上ノ中丁から石火矢町に改称。
武家屋敷の一つ。 母屋と長屋門が現存。
武家屋敷の一つ。 母屋が現存。
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1889年、西洋建築家の吉田伊平によって設計され、旧組合教会系の日本基督教団の教会堂として竣工。 教会堂としては岡山県下最古とされ、岡山県の史跡に指定。 1879年、金森通倫や中川横太郎らが風俗改良の面からキリスト教伝道を行う。 1880年、新島襄は宣教師オーティス・ケーリとともに来訪。 1882年、牧師は上代知新。 アメリカン・ボードの宣教医ジョン・カッティング・ベリーが伝道所を兼ねて施療所を開設し、医療も活発に。
1832年、周辺で火災が発生し、有終館が焼失。 学頭奥田楽山が再興し、山田方谷が学頭となった。 1839年、火災が発生して焼失し、山田方谷が再興。 校地に黒松を植え、現存。 1871年、閉校後、啓蒙社、女紅場、高梁小学校、高梁幼稚園などを経る。
備中高梁駅前に建立された像。 山田方谷は江戸時代から明治時代にかけて活躍した漢学者で備中松山藩士。 藩主板倉勝静のもとで藩政改革を断行し、成功を収めた。 板倉勝静は幕府の老中に、山田方谷は幕府の政治顧問となった。 藩校有終館、閑谷精舎(閑谷学校)などで携わった。