ヤマトタケル 白鳥伝説にふれる大人旅
三重ヤマトタケル 白鳥伝説にふれる大人旅
日本武尊が「我が足 三重のまかりなして、いと疲れたり」と漏らしたのが、三重の名の由来とか。 悲劇の皇子の最期の地は どこであるのか、古代史に想いを馳せて巡りたい。
四日市市采女地区にある旧 東海道の急坂。ヤマトタケルのミコトがここで「足が三重に折れ曲がるほど疲れた」と漏らしたのが 三重県の名の由来ともされる。
松尾芭蕉 句碑
あまりの急坂に、芭蕉は馬から転げ落ちたらしい。
血塚社
杖衝坂を登りきった場所にある。ヤマトタケルのミコトの血が付いた石を 集めて葬ったと伝えられている。
地元では古くから、ヤマトタケルのミコトの墓(能褒野陵墓)であると伝えられてきた。本居宣長らの国学者も、ここを本命視していた。 明治の調査の折も 一度は認定が下りたのだが、「皇族の墓は前方後円墳のはず」という指摘を受け、認定取り消しになってしまった。 取り消された後になって、白鳥塚は、実は帆立貝型の前方後円墳であることが判明している。
白鳥塚への道
未舗装の細道。
白鳥塚の隣にあり、ヤマトタケルのミコトが最期に持っていたと伝わる笠と杖を御神体とする。 神社では、日本武尊の字を当てている。
加佐登神社の絵馬
女装したヤマトタケルのミコトが熊襲を押さえつけた場面。
以前は丁子塚古墳と呼ばれていた。白鳥塚の治定が取り消された後、それまで候補になっていなかった丁子塚が陵墓と認定された。 鈴鹿の白鳥塚と亀山の丁字塚との関係は、江戸幕府についた藩と 明治政府についた藩という力関係に影響されてはいないんだろうか・・・。
現在は宮内庁の管理
付近には多くの古墳が残る。
丁子塚の治定の後、地元有志の働きかけにより丁子塚の隣に設立された。
周囲は森
森の中には、小規模古墳が多数 発掘されている。
能褒野陵墓に隣接して、能褒野神社を含む一帯が公園として整備されている。
園内には水が流れている
木陰も多く、気持ちよく散策できる。
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能褒野王塚古墳(丁子塚)の地は亀山市に所属しており、この博物館でも多くの資料を集めている。サイトもお勧め。