
大開で運を大きく開いていきまひょ!
大阪大開で運を大きく開いていきまひょ!
まいどまいど! 大阪市福島区には関西を代表するABC朝日放送局があり、その周辺はほたるまちと呼ばれてまんねやけども、そんな福島区では、これまで有名人物を多く輩出してきた。 パナソクニック(旧松下電器製作所)の創業者として知られる経営の神様・松下幸之助さん、日本初のカー用品店として知られるオートバックスの住野敏郎さん、牛丼チェーンの吉野家の松田栄吉さん、芸能面では上方落語界の重鎮として知られる月亭八方・八光さん。 区内各所には様々なゆかりの地がおまして、それら一つ一つをめぐってみるのも、なかなかおもろおまっせ。 かつては、この地を治めていた野田城、福島城の城下町であったといい、各所に名残が見られまんねん。 当時はどんな城郭であったのか、思いを馳せながら。 ほんでまた下福島公園は今、グラウンドやプールなどが整備されておますが、公園内にはノダフジと呼ばれるフジや戦前から残っている歴史的な塀が現存しておまして、見どころがぎょうさんおまっせ。 十日えびすなど商売繁盛で有名な野田戎など、探偵ナイトスクープの探偵になったつもり?(笑)で、歴史ある福島界隈をわてと一緒に散策しまひょ!
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区の花に選定された「のだふじ」がモデル。 のびのびとした子供をイメージした妖精フッピィ。 愛情は、ふじの花の「ふ」と福島区の「福(ハッピー)」を組み合わせて命名。 商店街での散策が趣味という。 城北公園フェアのほか、福島区のイベントに登場!
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周辺には、新橋筋商店街や聖天通商店街がある。 また、近所には、松下幸之助創業の地記念碑が設置されている。 商店街には、たこ焼きやお好み焼きなどの飲食店、喫茶店などをはじめ、書店や化粧品や時計などの雑貨、ファッション専門店、電器点などが軒を連ねる。
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ここは、創業者で経営の神様として知られる松下幸之助さんのゆかりの地。 大開公園内には、創業の地として石碑が建立されている。 大きな石に「道」と書かれ、その横には、松下幸之助さんにまつわるエピソードが記載。 大阪市東成区の起業の地から移転し、ここで松下電気器具製作所を創業。 そして、大阪府門真市に移転するまで、妻・むめのさんとともに研究開発に励んでいたとか。 当時、都・大阪から見て、北東に位置する門真市は、鬼門とされ、人々に恐れられていた。 幸之助さんも門真市に移転するまで、悩んでいた。 日々、悩んでいると、「祠を建てたらよろしいがな」というむめのさんの一言におされ、移転に踏み切ったという。
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松下幸之助の足跡
経営の神様とも呼ばれている松下幸之助氏はこの地で、松下電気器具製作所(現在のパナソニック・パナソニック電工)を創業した。 付近には、創業の家跡など四ヶ所ある。
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1533年、この地に訪れた本願寺第十世証如上人は、近江の佐々木六角定頼の手勢に不意をつかれた。 門徒の百姓衆が鋤・鍬・鎌を持って敵兵に立ち向かい、証如上人を護るために命をかけて戦い紀州に逃したが、信徒21人が犠牲になった。
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1115年に創建。 野田城の城郭の一部とされる。 安土桃山時代、織田信長と三好三人衆と間で野田城・福島城の戦いがあった。 野田恵比須神社では、戎様が祀られ、毎年、商売繁盛を願って、笹を奉納する。 10日を本戎、前日を宵戎、翌日を残り福といい、境内では、「商売繁盛で笹もって来い♪」と鳴り響く。 関西では、「戎様」を「えべっさん」と呼び、長年、親しまれてきた。 十日戎の開催中、付近はたこ焼き店などの出店が立ち並び、多くの人でにぎわう。
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大阪市福島区玉川付近にあったとされる戦国時代の城郭。 1531年、中嶋の戦い(細川高国と三好元長の戦い)が勃発。 細川高国と関係の深い浦上村宗が築城した。 細川氏綱とは、舎利寺の戦い(細川晴元や三好長慶の戦い)などで活躍した武将。 1570年、三好三人衆は、野田城を増築、籠城した。 1576年、野田城は、織田信長によって落城した。
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大阪市中央卸売市場の3市場の一つに数えられる。 主に、青果や水産物、加工品や加工食料品を扱う。 1931年、開設された。 2005年、取扱高は日本国内第2位である。
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主祭神は、少彦名命、菅原道真。 別名、福島 下の天神。 901年、菅原道真が当社に参拝し海路の平穏を祈ったと言う。 菅原道真は、この辺りを餓飢島と呼ばれていたのを福島と名づけた。 以降、当社は人々に天神様として尊崇を集められたことが起源とされている。
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大阪市福島区にある商店街。 飲食店や雑貨店などが立ち並ぶ。
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大阪市福島区にある都市公園(地区公園)。 1942年、都市公園として開園。 1894年、大日本紡績株式会社(ユニチカ株式会社)福島工場が建設。 工場閉鎖後、跡地には下福島公園や大阪厚生年金病院等となったが、工場で使用されていた赤煉瓦壁の一部が現存。 赤煉瓦壁は1945年の大阪大空襲や1909年の大火事「北の大火(天満焼け)」による火災延焼を食い止めたが現在は撤去。 公園内にはノダフジ(野田藤)が栽培、ノダフジ発祥の地。 足利義詮や豊臣秀吉も訪れた藤庵の庭も復元。 2001年、下福島プールが改築され、トレーニング施設が開業。 野球グラウンド、下福島運動場、1周480mのジョギングコースも整備。
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古代、現在の大阪府は、そのほとんどが海の底「河内湾」であったとされている。 平安時代、淀川や大和川などが氾濫するたびに、多くの土砂が流れ込み、御幣島や柴島、歌島、堂島、中之島などが形成されるようになった。 これら多くの島が点在していたことから、それらをたとえて、八十(やそ)島と言う。 ちなみに、多くの町が有る、多くの橋が架かっていることを、八百八町、八百八橋という。 その中に、野田州と呼ばれる村があり、その東には、福島があった。 この場所に、野田藤と呼ばれる命が芽生え、今日にその姿を伝える。 野田藤と福島区の歴史がここに刻まれている。
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創建時期などの詳細は不明である。 境内には、「天治大治」の年号が記された石灯篭がある。 牛頭天王社から八坂神社に改称された。 この付近は、鷺洲や海老江洲と呼ばれた砂洲であった。 1570年、野田城の三好一族との戦いで織田信長は戦勝を祈った。 明治時代、俳壇で活躍した松瀬青々の句碑が境内に建立されている。 毎年12月15日深夜、宮座神事が古式そのままに非公開で施行されていると言う。 1972年、大阪府無形文化財に指定。
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建立時期など詳細は不明である。 また、松瀬青々のゆかりの地とされ、境内には、「青々先生」と刻まれた碑が建立されている。
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1872年、松瀬青々は、船場の薪炭商の長男として生まれた。 本名は弥三郎。 北浜上等小学校を卒業後、丁稚奉公や呉服行商となる。 20代後半、子規と会い、勤めていた第一銀行を辞めて上京し「ホトトギス」の編集にあたった。 1900年、大阪へ戻り大阪朝日新聞社に入り朝日俳壇を担当。 1901年、「宝船」(のちに「倦鳥」と改題)を創刊。 1906年、当時の大阪市中央区北浜からこの付近に移った。
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別名、「野田商店街」と呼ばれている。 駅前なので、通勤客・通学客でにぎわっている。 主に、飲食店や雑貨屋などが立ち並んでいる。